月刊「活生」
2006年06月30日
機関紙「活生」 対談 No.113−丹田の道程 with 姉弟子Kurahashi
S:
前回は、集中力を継続する事の難しさについてお話をさせていただきましたが、姿勢・動作・呼吸など身体制御の一切は脳の中枢「脳幹部」が行うのです。身体の制御と亢進は、感情や環境などの影響も強く、健全な状態を維持た動作には、臍下丹田という下腹の真ん中に「キュ!」とした力が入らないと、落ち着いた動きや判断ができません。茶道、華道、踊り、武道などでも、専門的にやりますと腹に力を入れることを教えられます。腹に力を入れてそれを凝縮できる人が、「咄嗟に」潜在能力を引き出すことができます。普通の人でも少々は腹に力を入れられるのですから、潜在能力が偶然に発現する場合もありますが、それをコントロールし目的に集中するには訓練が必要です。
この腹に力を入れることを近代になって、コロッ!と忘れてしまったのか、現状は言葉だけになっていますね。しかし、腹に力が入らなければ五体がバラバラに動いて纏まりを欠きます。それでは力が入りませんから相手に訴える力が弱い、響きません。例えば、言葉の中には言霊が入る、というのは「共鳴」のことです。ですから、人やモノや環境に音声が共鳴して初めて通い合うということが成立するのです。動作も動きの微妙な調整が名人芸なのです。動きは直線的なものばかりではなく、ひとつの動作でも微妙な緩急や間合いが必要なのです。それを可能にするのが腹力を生み出す丹田です。
K:
オリンピックで金メダルを取った選手達がイメージトレーニングを取り入れて成功した、という特集番組を見ていましたら、普通の人が動きを想像しても動かない小脳の部分を、金メダリスト達は活性化していたと報告されていました。脳が動いているということが腹に力が入っていると考えられますか?
S:
私はそういう問題ではないと思います。今は脳の事を問題にしていますが、脳も身体同様にコントロールされて活動しています。小脳というのは運動野ですから、訓練を続けている人達は、運動を繰り返し繰り返し行うことで、イメージするだけでも実際に動いているかのように脳が活動するのです。つまり、訓練が足りない方々が、訓練もなしにイメージだけで小脳が活動するかと云えば、当たり前ですが実験のとおり動きません。
K:
そりゃあ、そうですね。普段何の訓練もしていないことをいくらイメージしても、脳は知らないのですから何の役にも立たない訳ですね。勉強もせずに、志望校に合格するイメージだけを克明に思い浮かべても受かる訳が無い。
S:
尾骨の中に眠っていて、覚醒すると超能力を引き出すと云われる「クンダリーニ」というヨガの言葉があります。似た言葉や概念は、東洋医学や仙道、道教、その他多くの修行方法の中にもあります。肥田先生の仰る仙骨神経の覚醒、仙骨神経に強い刺激を与えて脳幹を思考停止に導くというのは、表現や術語は異なるように見えますが、意味そのものははクンダリーニと同じですね。
K:
なるほどね!
S:
生理解剖学的見地からすれば肥田式の表現になる訳です。誰でも日々怠りなく鍛錬していると「心眼」が開けてきて、人やモノの真贋を見極める目が出来てまいります。目的を体得したかどうかとは関係なく、鍛練の繰り返しは自己観察を深めますので、必然的に「心眼」が出来てくるのです。モノが見えるというのは、例えばこれは何かおかしいとか、本物だと分かることです。そういう視点で、様々な修行や学術書などを読み直しますと、見えてくるモノがありまして、やはり肥田式は素晴らしい心身鍛練法であると実感できます。下腹丹田が生じただけでも潜在能力が引き出されるのです。
真伝の肥田式は武道的な要素が多分にあって、瞬間的に身体を緊張させることができます。強力な瞬間的緊張がバランス良く行われた時、そこには凄い力が生じるのです。それを動作によって放出するだけなのです。その力を内側に入れるように動けば、身体は自然に鍛えられます。ビッグ・バンも、瞬間的に凝縮したからこそ物凄いエネルギーが溜まって爆発した訳で、あれがだらだら集まっていたら爆発したでしょうか?
K:
オバサンの団体や保育園児の集合のように、三々五々、あっちこっちへふらふら状態だったら、絶対時間通りに出発できない。時間とか空間とかが、一気に押し寄せるとか、飲み込まれるようなスピードがビック・バンを引き起こすエネルギーになるのですね。しかも、爆発しても、のんびり広がって行ったのであれば、今の宇宙は存在できなかった。
S:
丹田の力は、従来の方法、逆腹式呼吸とかでは圧縮までは上手く行くのです。しかし、爆発するまでの圧力が掛からないのです。下腹に力を入れて、それを持続させ、圧縮した上に更に協力に圧縮して爆発させることで、脳幹部を思考停止させて結果、潜在能力を引き出すのです。単純に圧縮しただけでは力は出ません。そこを勘違いなさっている方々が多いのです。骨格も筋肉もそのままで、自然の延長で修行できなければおかしいのです。修行は特殊なものとイメージされますが、そうではありません。自然で日常なのですから、毎日の修行が二十四時間であって当然なのです。
K:
ですが、超能力を発揮する特殊細胞を見付けようとするプロジェクトがあるとか、テレビでやってました。
S:
欧米の科学者でしょうね。科学は自然から学ぶ学問ですよ。その原点を忘れてしまったら、科学とは呼べません。私はやはり、東洋の知恵に添って、自然の中でありのままにある、当たり前の能力を引き出したいと思います。
K:
そうですよね。超能力細胞とかを見つけて脳に電気ショックのような刺激を与えて超能力を引き出すというのは、基本的にオーム心理教と同じ路線です。
S:
インドには本当に超能力者がいて、実際目の前で見てきました。彼等はインドだから存在できるのだと思います。腰みの一枚で、何も持たず執着せず、僅かな施しだけで無欲に生きていけるからこそでしょうね。
前回は、集中力を継続する事の難しさについてお話をさせていただきましたが、姿勢・動作・呼吸など身体制御の一切は脳の中枢「脳幹部」が行うのです。身体の制御と亢進は、感情や環境などの影響も強く、健全な状態を維持た動作には、臍下丹田という下腹の真ん中に「キュ!」とした力が入らないと、落ち着いた動きや判断ができません。茶道、華道、踊り、武道などでも、専門的にやりますと腹に力を入れることを教えられます。腹に力を入れてそれを凝縮できる人が、「咄嗟に」潜在能力を引き出すことができます。普通の人でも少々は腹に力を入れられるのですから、潜在能力が偶然に発現する場合もありますが、それをコントロールし目的に集中するには訓練が必要です。
この腹に力を入れることを近代になって、コロッ!と忘れてしまったのか、現状は言葉だけになっていますね。しかし、腹に力が入らなければ五体がバラバラに動いて纏まりを欠きます。それでは力が入りませんから相手に訴える力が弱い、響きません。例えば、言葉の中には言霊が入る、というのは「共鳴」のことです。ですから、人やモノや環境に音声が共鳴して初めて通い合うということが成立するのです。動作も動きの微妙な調整が名人芸なのです。動きは直線的なものばかりではなく、ひとつの動作でも微妙な緩急や間合いが必要なのです。それを可能にするのが腹力を生み出す丹田です。
K:
オリンピックで金メダルを取った選手達がイメージトレーニングを取り入れて成功した、という特集番組を見ていましたら、普通の人が動きを想像しても動かない小脳の部分を、金メダリスト達は活性化していたと報告されていました。脳が動いているということが腹に力が入っていると考えられますか?
S:
私はそういう問題ではないと思います。今は脳の事を問題にしていますが、脳も身体同様にコントロールされて活動しています。小脳というのは運動野ですから、訓練を続けている人達は、運動を繰り返し繰り返し行うことで、イメージするだけでも実際に動いているかのように脳が活動するのです。つまり、訓練が足りない方々が、訓練もなしにイメージだけで小脳が活動するかと云えば、当たり前ですが実験のとおり動きません。
K:
そりゃあ、そうですね。普段何の訓練もしていないことをいくらイメージしても、脳は知らないのですから何の役にも立たない訳ですね。勉強もせずに、志望校に合格するイメージだけを克明に思い浮かべても受かる訳が無い。
S:
尾骨の中に眠っていて、覚醒すると超能力を引き出すと云われる「クンダリーニ」というヨガの言葉があります。似た言葉や概念は、東洋医学や仙道、道教、その他多くの修行方法の中にもあります。肥田先生の仰る仙骨神経の覚醒、仙骨神経に強い刺激を与えて脳幹を思考停止に導くというのは、表現や術語は異なるように見えますが、意味そのものははクンダリーニと同じですね。
K:
なるほどね!
S:
生理解剖学的見地からすれば肥田式の表現になる訳です。誰でも日々怠りなく鍛錬していると「心眼」が開けてきて、人やモノの真贋を見極める目が出来てまいります。目的を体得したかどうかとは関係なく、鍛練の繰り返しは自己観察を深めますので、必然的に「心眼」が出来てくるのです。モノが見えるというのは、例えばこれは何かおかしいとか、本物だと分かることです。そういう視点で、様々な修行や学術書などを読み直しますと、見えてくるモノがありまして、やはり肥田式は素晴らしい心身鍛練法であると実感できます。下腹丹田が生じただけでも潜在能力が引き出されるのです。
真伝の肥田式は武道的な要素が多分にあって、瞬間的に身体を緊張させることができます。強力な瞬間的緊張がバランス良く行われた時、そこには凄い力が生じるのです。それを動作によって放出するだけなのです。その力を内側に入れるように動けば、身体は自然に鍛えられます。ビッグ・バンも、瞬間的に凝縮したからこそ物凄いエネルギーが溜まって爆発した訳で、あれがだらだら集まっていたら爆発したでしょうか?
K:
オバサンの団体や保育園児の集合のように、三々五々、あっちこっちへふらふら状態だったら、絶対時間通りに出発できない。時間とか空間とかが、一気に押し寄せるとか、飲み込まれるようなスピードがビック・バンを引き起こすエネルギーになるのですね。しかも、爆発しても、のんびり広がって行ったのであれば、今の宇宙は存在できなかった。
S:
丹田の力は、従来の方法、逆腹式呼吸とかでは圧縮までは上手く行くのです。しかし、爆発するまでの圧力が掛からないのです。下腹に力を入れて、それを持続させ、圧縮した上に更に協力に圧縮して爆発させることで、脳幹部を思考停止させて結果、潜在能力を引き出すのです。単純に圧縮しただけでは力は出ません。そこを勘違いなさっている方々が多いのです。骨格も筋肉もそのままで、自然の延長で修行できなければおかしいのです。修行は特殊なものとイメージされますが、そうではありません。自然で日常なのですから、毎日の修行が二十四時間であって当然なのです。
K:
ですが、超能力を発揮する特殊細胞を見付けようとするプロジェクトがあるとか、テレビでやってました。
S:
欧米の科学者でしょうね。科学は自然から学ぶ学問ですよ。その原点を忘れてしまったら、科学とは呼べません。私はやはり、東洋の知恵に添って、自然の中でありのままにある、当たり前の能力を引き出したいと思います。
K:
そうですよね。超能力細胞とかを見つけて脳に電気ショックのような刺激を与えて超能力を引き出すというのは、基本的にオーム心理教と同じ路線です。
S:
インドには本当に超能力者がいて、実際目の前で見てきました。彼等はインドだから存在できるのだと思います。腰みの一枚で、何も持たず執着せず、僅かな施しだけで無欲に生きていけるからこそでしょうね。
spb-0034 at 19:47|Permalink
│
機関紙「活生」 対談 No.111−丹田の道程 with 姉弟子Kurahashi
S:
不躾な質問か、とおもいますけれど「気」が分かりますか?
K:
えぇ、指先や掌を翳してみると、その廻りに白いモヤモヤの陽炎のようなものが、うっすらと見えるように思えます。
S:
それは「気エネルギー」の残存現象ですね。
K:
普段は見えませんが、呼吸法の後や丹田に力を入れたときに、ハッキリと陽炎のモヤモヤが見えるので、これが気と思っています。
S:
物理的現象には量と質と働きという三つの側面があります。あなたが見た陽炎は気の一部ですが、量でも質でもない、働きです。要約すると、言葉、態度、目付き、物腰に気が入っているかどうか、気が注がれているか、そこに気の量が測れます。
「気とは何か?」と聞かれても、形も色も働きも様々で、普段関心がない方は本質が掴み難いものです。武道や東洋的治療、舞踊や人格形成の鍛錬をする方々は、少なくとも身体で感じるエネルギーで、感じられなければ上達はできません。少なくとも、自分の言葉で気を定義し、仕草として日常に使えるようでなくては、修行は成り立たないのです。
気は漠然としていますが、宇宙よりも何よりも余りに大き過ぎて、掴み難いから漠然としているのです。それを知った上で、自分で定義し使うということが大切です。気を意識して遣うようにすると、鍛錬が進むほどに気の質や量、働きの更に奥深い微妙な違いが分かってきます。このような気の鍛錬に決まった型などありません。内面に働く気エネルギーの向上を基準にするのであれば、固定した教え方などできません。科学は同じ条件であれば、誰が行っても同じ結果がでるという再現性を根拠にしていますが、鍛錬は同じ人が同じように行っても、同じ結果が出る訳ではありません。例えば、昨日と同じ鍛錬を同じ時刻に、同じ時間行って同じだったら、どうなりますか?
K:
初心者は永久に巧くなれませんよね。
S:
話が脱線してしまいましたが、「気」というものを理解できるようになって、それを使えるようになれば人を生かしたり殺したりすることもできます。意識化される前のエネルギーを変えて、陽気な人を陰気にしたり、善意を悪意にすることも出来るのです。ですから、気を理解すればするほど、気遣いが大変です。大事なのは、相手の状態で対応してゆくことです。言葉遣いや態度、治療ならタッチの微妙な強弱ですが、そうすると相手も力を抜き、弱気や邪気が無くなります。どうせなら哲学を持って真理の奥深くまで到達したいと思っておりますので、根本的療法を選んでおります。
私はマニュアルや集団指導で育った人間ではなく、現在の私の指導も伝統のままの、十人十色の教え方です。これは同じ生徒さんでも、毎回、気の量や質が変化しているからです。それが分かりますので、相手のその時点での気に応じた指導をしております。ところが、マニュアルで育った方は十人十色が理解できないのです。困ったことに陰に回り「前回と違う、嘘を教えた」と言われてしまうのです。見ているところが違うのですからしょうがないのかも知れませんが、実に失礼な話です。
相手が進歩すれば、進歩に応じたレベルを教えているのに、それが理解できないのです。特に酷い輩は、他で肥田式を学んでいて壁に突き当たって私の所へ来るケースです。私のところに行くというと、その際「佐々木は毎回教えることが違う」と忠告されるそうです。このことはインターネットでも書かれ、多くの方から言われました。が、考えてみるとおかしな話です。小学校から大学まで同じことを教えられた訳ではないのにね。数学でも国語でもレベルの違う内容を教えられたはずなのですが、修行だけは固定した学びだと思い込んでいる。ある人は私がそう説明したら、「それはそうですよね」と、言われるまで分からなかった。これでは上達出来るわけがありません。
基本から極意まで、ことごとく気合で学ぶ肥田式にはマニュアルなど無く、覚えて忘れる!の繰り返しです。ここに感性、識性、悟性が育まれるのです。これは創始者春充先生の時代から同じです。スポーツ選手のようなイエスマン型のロボットを育てるのではなく、人間を育む鍛練であって、人生は臨機応変の中に花がある、と分からない方に肥田式は必要有りません。止めなさい!と言っています。
K:
でも、先生の説明を伺って、素直にそうですね!と納得する人であれば、生徒として受け入れても良いのではありませんか?
S:
駄目ですね! そういう方は根底に頑迷的な教条主義が根を張っている。マニュアル教育で育って来たので、こうだと言われればそうだと思うけれど、根本的に納得して心から理解した訳ではないので、本質は変われないのです。私が治療法を教えている二十年来の弟子がいるのですが、未だに気遣いとか気とかは理解しておりません。
今、浜口熊嶽という気合人を「秘伝」に書いているのですが、千人近い弟子がいたが誰一人モノにならなかった。春充先生も百版を超える超ベストセラーを書かれたのに、誰も出来なかった。理由を考えて見ますと、当時から官僚主導で軍隊教育が定着し、社会が教条的で精神性の本質を感覚で捉えられないのです。精神を主義にしてしまうのですからバカげています。
例えば武道は、手足の先での術や技ですから全部目で捉えられます。末枝末葉、末梢であればあるほど分かり易いのです。しかし、気合は呼吸や姿勢など裡なる内面が問題です。これは感性や識性で捉えるしかありません。術や技との違いがここにあります。覚えて忘れる!の繰り返しの必要性がここにあります。日本伝統の芸事は、みな例外なく同じような学びでした。本物の学びでは、バカと野暮は駄目です。そのような方にはカルチャーセンターのようなマニュアル教室があります。すでに基本から違うのですから来られたら迷惑です。
それでは「佐々木先生の中心道とはどんなものですか?」と聞かれても、無駄だから聞くなと答えます。棍棒を振り回すよりも、丹田に心棒をグッと突っ込んだ人間を造るのだ、を理解できないようでは無駄なのです。
不躾な質問か、とおもいますけれど「気」が分かりますか?
K:
えぇ、指先や掌を翳してみると、その廻りに白いモヤモヤの陽炎のようなものが、うっすらと見えるように思えます。
S:
それは「気エネルギー」の残存現象ですね。
K:
普段は見えませんが、呼吸法の後や丹田に力を入れたときに、ハッキリと陽炎のモヤモヤが見えるので、これが気と思っています。
S:
物理的現象には量と質と働きという三つの側面があります。あなたが見た陽炎は気の一部ですが、量でも質でもない、働きです。要約すると、言葉、態度、目付き、物腰に気が入っているかどうか、気が注がれているか、そこに気の量が測れます。
「気とは何か?」と聞かれても、形も色も働きも様々で、普段関心がない方は本質が掴み難いものです。武道や東洋的治療、舞踊や人格形成の鍛錬をする方々は、少なくとも身体で感じるエネルギーで、感じられなければ上達はできません。少なくとも、自分の言葉で気を定義し、仕草として日常に使えるようでなくては、修行は成り立たないのです。
気は漠然としていますが、宇宙よりも何よりも余りに大き過ぎて、掴み難いから漠然としているのです。それを知った上で、自分で定義し使うということが大切です。気を意識して遣うようにすると、鍛錬が進むほどに気の質や量、働きの更に奥深い微妙な違いが分かってきます。このような気の鍛錬に決まった型などありません。内面に働く気エネルギーの向上を基準にするのであれば、固定した教え方などできません。科学は同じ条件であれば、誰が行っても同じ結果がでるという再現性を根拠にしていますが、鍛錬は同じ人が同じように行っても、同じ結果が出る訳ではありません。例えば、昨日と同じ鍛錬を同じ時刻に、同じ時間行って同じだったら、どうなりますか?
K:
初心者は永久に巧くなれませんよね。
S:
話が脱線してしまいましたが、「気」というものを理解できるようになって、それを使えるようになれば人を生かしたり殺したりすることもできます。意識化される前のエネルギーを変えて、陽気な人を陰気にしたり、善意を悪意にすることも出来るのです。ですから、気を理解すればするほど、気遣いが大変です。大事なのは、相手の状態で対応してゆくことです。言葉遣いや態度、治療ならタッチの微妙な強弱ですが、そうすると相手も力を抜き、弱気や邪気が無くなります。どうせなら哲学を持って真理の奥深くまで到達したいと思っておりますので、根本的療法を選んでおります。
私はマニュアルや集団指導で育った人間ではなく、現在の私の指導も伝統のままの、十人十色の教え方です。これは同じ生徒さんでも、毎回、気の量や質が変化しているからです。それが分かりますので、相手のその時点での気に応じた指導をしております。ところが、マニュアルで育った方は十人十色が理解できないのです。困ったことに陰に回り「前回と違う、嘘を教えた」と言われてしまうのです。見ているところが違うのですからしょうがないのかも知れませんが、実に失礼な話です。
相手が進歩すれば、進歩に応じたレベルを教えているのに、それが理解できないのです。特に酷い輩は、他で肥田式を学んでいて壁に突き当たって私の所へ来るケースです。私のところに行くというと、その際「佐々木は毎回教えることが違う」と忠告されるそうです。このことはインターネットでも書かれ、多くの方から言われました。が、考えてみるとおかしな話です。小学校から大学まで同じことを教えられた訳ではないのにね。数学でも国語でもレベルの違う内容を教えられたはずなのですが、修行だけは固定した学びだと思い込んでいる。ある人は私がそう説明したら、「それはそうですよね」と、言われるまで分からなかった。これでは上達出来るわけがありません。
基本から極意まで、ことごとく気合で学ぶ肥田式にはマニュアルなど無く、覚えて忘れる!の繰り返しです。ここに感性、識性、悟性が育まれるのです。これは創始者春充先生の時代から同じです。スポーツ選手のようなイエスマン型のロボットを育てるのではなく、人間を育む鍛練であって、人生は臨機応変の中に花がある、と分からない方に肥田式は必要有りません。止めなさい!と言っています。
K:
でも、先生の説明を伺って、素直にそうですね!と納得する人であれば、生徒として受け入れても良いのではありませんか?
S:
駄目ですね! そういう方は根底に頑迷的な教条主義が根を張っている。マニュアル教育で育って来たので、こうだと言われればそうだと思うけれど、根本的に納得して心から理解した訳ではないので、本質は変われないのです。私が治療法を教えている二十年来の弟子がいるのですが、未だに気遣いとか気とかは理解しておりません。
今、浜口熊嶽という気合人を「秘伝」に書いているのですが、千人近い弟子がいたが誰一人モノにならなかった。春充先生も百版を超える超ベストセラーを書かれたのに、誰も出来なかった。理由を考えて見ますと、当時から官僚主導で軍隊教育が定着し、社会が教条的で精神性の本質を感覚で捉えられないのです。精神を主義にしてしまうのですからバカげています。
例えば武道は、手足の先での術や技ですから全部目で捉えられます。末枝末葉、末梢であればあるほど分かり易いのです。しかし、気合は呼吸や姿勢など裡なる内面が問題です。これは感性や識性で捉えるしかありません。術や技との違いがここにあります。覚えて忘れる!の繰り返しの必要性がここにあります。日本伝統の芸事は、みな例外なく同じような学びでした。本物の学びでは、バカと野暮は駄目です。そのような方にはカルチャーセンターのようなマニュアル教室があります。すでに基本から違うのですから来られたら迷惑です。
それでは「佐々木先生の中心道とはどんなものですか?」と聞かれても、無駄だから聞くなと答えます。棍棒を振り回すよりも、丹田に心棒をグッと突っ込んだ人間を造るのだ、を理解できないようでは無駄なのです。
spb-0034 at 19:46|Permalink
│
機関紙「活生」 対談 No.108−丹田の道程 with 姉弟子Kurahashi
K:
前回は学びの初心に戻り、摩訶不思議の追求宣言?でしたが、補足というか、もう少し詳しく伺いたいのですが。
S:
私は修行とか鍛練と称されることを色々行ってまいりましたが、武道などからではなく、禅という思考法というか哲学というか、人生観そのものに一番大きく影響を受けております。禅というのは現象に囚われることなく、その中に働く本質的なものを捉える一つの訓練法でもあります。例えば、悟りというものも現象の底に流れる原因・因果の根本的なところから深く思考する、そして結局は喜捨選択の末に捨て去って白紙になった状態で投影されるところのインスピレーションを感じ取る、ということなのだと思うのです。
禅は道教と仏教が融合して形成された教えですが、それだけに「万物は同じではなく常に変転している」という思考形態をとります。昨日と今日では違うのですから、昨日の言動に囚われずに今日は今日の言動となる。これなどは道教や禅を知らないと嘘つきと言われますね。そこで沈黙が金となります。「座禅で得たことを文字に書き表すことはできない」とよく言われておりますが、それでも文章に書き残したいという人間の本性がありまして、禅ほど文献が多く残っているものはありません。本当に沢山あるのです。内容はどれも大体似ています。似たようなことを書いているのですが全部違います。時代性や個性、修行の度合いの深浅がありますから。ですから、禅の解釈は感覚的、精神的なものだけに「禅の遊び」とも云えるのです。
そういうことを十代の多感な時期に経験していたものですから、人生の喜怒哀楽を人並みに経験した年齢になってみると、禅的発想を身につけたことでの発想の豊かさが備わっていたことに気付きました。何をやるにも、常に禅的発想や物事の捉え方で息しておりました。肥田式でも同じです。鍛錬をしていて型に溺れない、この型は何のために行うのか、常に目的を明確にして悩み・苦しんで参りましたので方向性は自然と決まってきて、そうするとエネルギーが裡に蓄積されてきます。「エネルギーが蓄積されて溢れた」に体得があるのです。これを繰り返し、今に至っているのです。このように修行ができたのは十代で禅を学んだ御蔭です。そして、肥田式そのものも禅が重要な位置を占めておりまして、春充先生の文章にも随所で禅用語が使われておりますが、これなどは感覚で読みとりなさいというような禅問答を仕掛けられたと思っております。
K:
禅問答と言うと、私達にはチンプンカンプンな問答で、落語の噺くらいしか思いつかないんですけど、本質を追求して研鑽している方々にとっては分かり易いものなのですか?
S:
分かるとか、分かり易いとか云うのは診察で例えれば、現代学的な症状から追って症状に留まる診察のようなものです。禅的診察は名医と呼ばれる方々の観察と経験、思考、技術の結果、その症状の原因となる生活習慣や環境、ストレスなどを推察・推理した診察なのです。一般の思考や勉強で全てが済むのであれば、禅は必要ありません。色々な学問体系がありまして、目的や追求する内容の深さで方法は変わるのです。
禅は相当深いところの真理を探求する方法です。そして肥田式を特徴付けている気合は、一般的には呼吸や音声、有声・無声、エイ、ヤ、トオ!とか思っておられるようですが、実際は人間の能力を活性化する手段なのです。この方法が従来の重い物を持ち上げるとか早く走るという筋肉だけではなく、内部の奥深くにある生命に直結した深層筋を動かしていくという発想なのです。そういう深層筋まで動かすことが出来る鍛錬法は、気合術しか残っていないのです。私も色々勉強しましたが、解剖学や生理学から見て、『人間の体は神経反射によって全てが動く』のです。人間の神経は交感・副交感神経、脳脊柱神経か末端かということですが、これらを抜きにして生きること・動くことを語れないのです。神経の反応系が体なのです。ですから、悟りが神経の偏りを正したり、新たな方向性を決めたりするから尊いのです。肥田式の場合は脳脊髄系に直に働きかける方法として素晴らしいのです。修行をしていて、それに気付いたときには感激しました。
K:
超能力者として有名だった人は落馬して腰を打ち、それが原因で透視能力や予知能力が発現したというので、物理的に引き出せるのではないかと錯覚して、最近も、オウム真理教の分派が竹刀で体を叩く修行をしていて死亡事故を起こしています。生理や解剖という学理を知らず、形だけを追ってアニメみたいな超能力を夢見るからなんでしょうが、修行は無理のない思考や動作で、というのが本当なんでしょうね。
S:
その通りです。それと、人間は自分の意思の占める比重が極めて大きいのです。意思によって神経の働きが違ってきます。意思が強ければ強いほど、必要性が絡んでくればもっとエネルギーの方向性が明確になります。そういう感覚が肥田式は明瞭になっています。他の方法は未だそれが曖昧なのです。
東大の先生でしたか、「最近また超能力がブームになっているようですが、私は超能力など信じません」と大新聞の論説で公言しておられました。確かに優れた専門知識はもっていらっしゃるのでしょうが、だからといって何もかも御存知とは限らない。御自分の御存知ない分野のことまで断言なさるのは如何がなものでしょう。中世の教会が天動説に震え上がってガリレオを沈黙させたのは愚かだと認めても、その後継者である学者の方々も教会と同様、将来新しい学問として認知されるかもしれない超能力というものを平気で無視するのですから。人間の脳はまだまだブラックボックスで、特に神経系は良く分からない部分があるのです。私はそろそろ真面目に学問の一分野として研究するべきだと思っています。ちゃんと研究されれば玉石混交のものがきちんと整理整頓され、「体温零度まで人間は生きています、学会の定説です」のようなデタラメは追放されるのですから。
前回は学びの初心に戻り、摩訶不思議の追求宣言?でしたが、補足というか、もう少し詳しく伺いたいのですが。
S:
私は修行とか鍛練と称されることを色々行ってまいりましたが、武道などからではなく、禅という思考法というか哲学というか、人生観そのものに一番大きく影響を受けております。禅というのは現象に囚われることなく、その中に働く本質的なものを捉える一つの訓練法でもあります。例えば、悟りというものも現象の底に流れる原因・因果の根本的なところから深く思考する、そして結局は喜捨選択の末に捨て去って白紙になった状態で投影されるところのインスピレーションを感じ取る、ということなのだと思うのです。
禅は道教と仏教が融合して形成された教えですが、それだけに「万物は同じではなく常に変転している」という思考形態をとります。昨日と今日では違うのですから、昨日の言動に囚われずに今日は今日の言動となる。これなどは道教や禅を知らないと嘘つきと言われますね。そこで沈黙が金となります。「座禅で得たことを文字に書き表すことはできない」とよく言われておりますが、それでも文章に書き残したいという人間の本性がありまして、禅ほど文献が多く残っているものはありません。本当に沢山あるのです。内容はどれも大体似ています。似たようなことを書いているのですが全部違います。時代性や個性、修行の度合いの深浅がありますから。ですから、禅の解釈は感覚的、精神的なものだけに「禅の遊び」とも云えるのです。
そういうことを十代の多感な時期に経験していたものですから、人生の喜怒哀楽を人並みに経験した年齢になってみると、禅的発想を身につけたことでの発想の豊かさが備わっていたことに気付きました。何をやるにも、常に禅的発想や物事の捉え方で息しておりました。肥田式でも同じです。鍛錬をしていて型に溺れない、この型は何のために行うのか、常に目的を明確にして悩み・苦しんで参りましたので方向性は自然と決まってきて、そうするとエネルギーが裡に蓄積されてきます。「エネルギーが蓄積されて溢れた」に体得があるのです。これを繰り返し、今に至っているのです。このように修行ができたのは十代で禅を学んだ御蔭です。そして、肥田式そのものも禅が重要な位置を占めておりまして、春充先生の文章にも随所で禅用語が使われておりますが、これなどは感覚で読みとりなさいというような禅問答を仕掛けられたと思っております。
K:
禅問答と言うと、私達にはチンプンカンプンな問答で、落語の噺くらいしか思いつかないんですけど、本質を追求して研鑽している方々にとっては分かり易いものなのですか?
S:
分かるとか、分かり易いとか云うのは診察で例えれば、現代学的な症状から追って症状に留まる診察のようなものです。禅的診察は名医と呼ばれる方々の観察と経験、思考、技術の結果、その症状の原因となる生活習慣や環境、ストレスなどを推察・推理した診察なのです。一般の思考や勉強で全てが済むのであれば、禅は必要ありません。色々な学問体系がありまして、目的や追求する内容の深さで方法は変わるのです。
禅は相当深いところの真理を探求する方法です。そして肥田式を特徴付けている気合は、一般的には呼吸や音声、有声・無声、エイ、ヤ、トオ!とか思っておられるようですが、実際は人間の能力を活性化する手段なのです。この方法が従来の重い物を持ち上げるとか早く走るという筋肉だけではなく、内部の奥深くにある生命に直結した深層筋を動かしていくという発想なのです。そういう深層筋まで動かすことが出来る鍛錬法は、気合術しか残っていないのです。私も色々勉強しましたが、解剖学や生理学から見て、『人間の体は神経反射によって全てが動く』のです。人間の神経は交感・副交感神経、脳脊柱神経か末端かということですが、これらを抜きにして生きること・動くことを語れないのです。神経の反応系が体なのです。ですから、悟りが神経の偏りを正したり、新たな方向性を決めたりするから尊いのです。肥田式の場合は脳脊髄系に直に働きかける方法として素晴らしいのです。修行をしていて、それに気付いたときには感激しました。
K:
超能力者として有名だった人は落馬して腰を打ち、それが原因で透視能力や予知能力が発現したというので、物理的に引き出せるのではないかと錯覚して、最近も、オウム真理教の分派が竹刀で体を叩く修行をしていて死亡事故を起こしています。生理や解剖という学理を知らず、形だけを追ってアニメみたいな超能力を夢見るからなんでしょうが、修行は無理のない思考や動作で、というのが本当なんでしょうね。
S:
その通りです。それと、人間は自分の意思の占める比重が極めて大きいのです。意思によって神経の働きが違ってきます。意思が強ければ強いほど、必要性が絡んでくればもっとエネルギーの方向性が明確になります。そういう感覚が肥田式は明瞭になっています。他の方法は未だそれが曖昧なのです。
東大の先生でしたか、「最近また超能力がブームになっているようですが、私は超能力など信じません」と大新聞の論説で公言しておられました。確かに優れた専門知識はもっていらっしゃるのでしょうが、だからといって何もかも御存知とは限らない。御自分の御存知ない分野のことまで断言なさるのは如何がなものでしょう。中世の教会が天動説に震え上がってガリレオを沈黙させたのは愚かだと認めても、その後継者である学者の方々も教会と同様、将来新しい学問として認知されるかもしれない超能力というものを平気で無視するのですから。人間の脳はまだまだブラックボックスで、特に神経系は良く分からない部分があるのです。私はそろそろ真面目に学問の一分野として研究するべきだと思っています。ちゃんと研究されれば玉石混交のものがきちんと整理整頓され、「体温零度まで人間は生きています、学会の定説です」のようなデタラメは追放されるのですから。
spb-0034 at 19:42|Permalink
│
機関紙「活生」 対談 No.108−丹田の道程 with 姉弟子Kurahashi
K:
前回は学びの初心に戻り、摩訶不思議の追求宣言?でしたが、補足というか、もう少し詳しく伺いたいのですが。
S:
私は修行とか鍛練と称されることを色々行ってまいりましたが、武道などからではなく、禅という思考法というか哲学というか、人生観そのものに一番大きく影響を受けております。禅というのは現象に囚われることなく、その中に働く本質的なものを捉える一つの訓練法でもあります。例えば、悟りというものも現象の底に流れる原因・因果の根本的なところから深く思考する、そして結局は喜捨選択の末に捨て去って白紙になった状態で投影されるところのインスピレーションを感じ取る、ということなのだと思うのです。
禅は道教と仏教が融合して形成された教えですが、それだけに「万物は同じではなく常に変転している」という思考形態をとります。昨日と今日では違うのですから、昨日の言動に囚われずに今日は今日の言動となる。これなどは道教や禅を知らないと嘘つきと言われますね。そこで沈黙が金となります。「座禅で得たことを文字に書き表すことはできない」とよく言われておりますが、それでも文章に書き残したいという人間の本性がありまして、禅ほど文献が多く残っているものはありません。本当に沢山あるのです。内容はどれも大体似ています。似たようなことを書いているのですが全部違います。時代性や個性、修行の度合いの深浅がありますから。ですから、禅の解釈は感覚的、精神的なものだけに「禅の遊び」とも云えるのです。
そういうことを十代の多感な時期に経験していたものですから、人生の喜怒哀楽を人並みに経験した年齢になってみると、禅的発想を身につけたことでの発想の豊かさが備わっていたことに気付きました。何をやるにも、常に禅的発想や物事の捉え方で息しておりました。肥田式でも同じです。鍛錬をしていて型に溺れない、この型は何のために行うのか、常に目的を明確にして悩み・苦しんで参りましたので方向性は自然と決まってきて、そうするとエネルギーが裡に蓄積されてきます。「エネルギーが蓄積されて溢れた」に体得があるのです。これを繰り返し、今に至っているのです。このように修行ができたのは十代で禅を学んだ御蔭です。そして、肥田式そのものも禅が重要な位置を占めておりまして、春充先生の文章にも随所で禅用語が使われておりますが、これなどは感覚で読みとりなさいというような禅問答を仕掛けられたと思っております。
K:
禅問答と言うと、私達にはチンプンカンプンな問答で、落語の噺くらいしか思いつかないんですけど、本質を追求して研鑽している方々にとっては分かり易いものなのですか?
S:
分かるとか、分かり易いとか云うのは診察で例えれば、現代学的な症状から追って症状に留まる診察のようなものです。禅的診察は名医と呼ばれる方々の観察と経験、思考、技術の結果、その症状の原因となる生活習慣や環境、ストレスなどを推察・推理した診察なのです。一般の思考や勉強で全てが済むのであれば、禅は必要ありません。色々な学問体系がありまして、目的や追求する内容の深さで方法は変わるのです。
禅は相当深いところの真理を探求する方法です。そして肥田式を特徴付けている気合は、一般的には呼吸や音声、有声・無声、エイ、ヤ、トオ!とか思っておられるようですが、実際は人間の能力を活性化する手段なのです。この方法が従来の重い物を持ち上げるとか早く走るという筋肉だけではなく、内部の奥深くにある生命に直結した深層筋を動かしていくという発想なのです。そういう深層筋まで動かすことが出来る鍛錬法は、気合術しか残っていないのです。私も色々勉強しましたが、解剖学や生理学から見て、『人間の体は神経反射によって全てが動く』のです。人間の神経は交感・副交感神経、脳脊柱神経か末端かということですが、これらを抜きにして生きること・動くことを語れないのです。神経の反応系が体なのです。ですから、悟りが神経の偏りを正したり、新たな方向性を決めたりするから尊いのです。肥田式の場合は脳脊髄系に直に働きかける方法として素晴らしいのです。修行をしていて、それに気付いたときには感激しました。
K:
超能力者として有名だった人は落馬して腰を打ち、それが原因で透視能力や予知能力が発現したというので、物理的に引き出せるのではないかと錯覚して、最近も、オウム真理教の分派が竹刀で体を叩く修行をしていて死亡事故を起こしています。生理や解剖という学理を知らず、形だけを追ってアニメみたいな超能力を夢見るからなんでしょうが、修行は無理のない思考や動作で、というのが本当なんでしょうね。
S:
その通りです。それと、人間は自分の意思の占める比重が極めて大きいのです。意思によって神経の働きが違ってきます。意思が強ければ強いほど、必要性が絡んでくればもっとエネルギーの方向性が明確になります。そういう感覚が肥田式は明瞭になっています。他の方法は未だそれが曖昧なのです。
東大の先生でしたか、「最近また超能力がブームになっているようですが、私は超能力など信じません」と大新聞の論説で公言しておられました。確かに優れた専門知識はもっていらっしゃるのでしょうが、だからといって何もかも御存知とは限らない。御自分の御存知ない分野のことまで断言なさるのは如何がなものでしょう。中世の教会が天動説に震え上がってガリレオを沈黙させたのは愚かだと認めても、その後継者である学者の方々も教会と同様、将来新しい学問として認知されるかもしれない超能力というものを平気で無視するのですから。人間の脳はまだまだブラックボックスで、特に神経系は良く分からない部分があるのです。私はそろそろ真面目に学問の一分野として研究するべきだと思っています。ちゃんと研究されれば玉石混交のものがきちんと整理整頓され、「体温零度まで人間は生きています、学会の定説です」のようなデタラメは追放されるのですから。
前回は学びの初心に戻り、摩訶不思議の追求宣言?でしたが、補足というか、もう少し詳しく伺いたいのですが。
S:
私は修行とか鍛練と称されることを色々行ってまいりましたが、武道などからではなく、禅という思考法というか哲学というか、人生観そのものに一番大きく影響を受けております。禅というのは現象に囚われることなく、その中に働く本質的なものを捉える一つの訓練法でもあります。例えば、悟りというものも現象の底に流れる原因・因果の根本的なところから深く思考する、そして結局は喜捨選択の末に捨て去って白紙になった状態で投影されるところのインスピレーションを感じ取る、ということなのだと思うのです。
禅は道教と仏教が融合して形成された教えですが、それだけに「万物は同じではなく常に変転している」という思考形態をとります。昨日と今日では違うのですから、昨日の言動に囚われずに今日は今日の言動となる。これなどは道教や禅を知らないと嘘つきと言われますね。そこで沈黙が金となります。「座禅で得たことを文字に書き表すことはできない」とよく言われておりますが、それでも文章に書き残したいという人間の本性がありまして、禅ほど文献が多く残っているものはありません。本当に沢山あるのです。内容はどれも大体似ています。似たようなことを書いているのですが全部違います。時代性や個性、修行の度合いの深浅がありますから。ですから、禅の解釈は感覚的、精神的なものだけに「禅の遊び」とも云えるのです。
そういうことを十代の多感な時期に経験していたものですから、人生の喜怒哀楽を人並みに経験した年齢になってみると、禅的発想を身につけたことでの発想の豊かさが備わっていたことに気付きました。何をやるにも、常に禅的発想や物事の捉え方で息しておりました。肥田式でも同じです。鍛錬をしていて型に溺れない、この型は何のために行うのか、常に目的を明確にして悩み・苦しんで参りましたので方向性は自然と決まってきて、そうするとエネルギーが裡に蓄積されてきます。「エネルギーが蓄積されて溢れた」に体得があるのです。これを繰り返し、今に至っているのです。このように修行ができたのは十代で禅を学んだ御蔭です。そして、肥田式そのものも禅が重要な位置を占めておりまして、春充先生の文章にも随所で禅用語が使われておりますが、これなどは感覚で読みとりなさいというような禅問答を仕掛けられたと思っております。
K:
禅問答と言うと、私達にはチンプンカンプンな問答で、落語の噺くらいしか思いつかないんですけど、本質を追求して研鑽している方々にとっては分かり易いものなのですか?
S:
分かるとか、分かり易いとか云うのは診察で例えれば、現代学的な症状から追って症状に留まる診察のようなものです。禅的診察は名医と呼ばれる方々の観察と経験、思考、技術の結果、その症状の原因となる生活習慣や環境、ストレスなどを推察・推理した診察なのです。一般の思考や勉強で全てが済むのであれば、禅は必要ありません。色々な学問体系がありまして、目的や追求する内容の深さで方法は変わるのです。
禅は相当深いところの真理を探求する方法です。そして肥田式を特徴付けている気合は、一般的には呼吸や音声、有声・無声、エイ、ヤ、トオ!とか思っておられるようですが、実際は人間の能力を活性化する手段なのです。この方法が従来の重い物を持ち上げるとか早く走るという筋肉だけではなく、内部の奥深くにある生命に直結した深層筋を動かしていくという発想なのです。そういう深層筋まで動かすことが出来る鍛錬法は、気合術しか残っていないのです。私も色々勉強しましたが、解剖学や生理学から見て、『人間の体は神経反射によって全てが動く』のです。人間の神経は交感・副交感神経、脳脊柱神経か末端かということですが、これらを抜きにして生きること・動くことを語れないのです。神経の反応系が体なのです。ですから、悟りが神経の偏りを正したり、新たな方向性を決めたりするから尊いのです。肥田式の場合は脳脊髄系に直に働きかける方法として素晴らしいのです。修行をしていて、それに気付いたときには感激しました。
K:
超能力者として有名だった人は落馬して腰を打ち、それが原因で透視能力や予知能力が発現したというので、物理的に引き出せるのではないかと錯覚して、最近も、オウム真理教の分派が竹刀で体を叩く修行をしていて死亡事故を起こしています。生理や解剖という学理を知らず、形だけを追ってアニメみたいな超能力を夢見るからなんでしょうが、修行は無理のない思考や動作で、というのが本当なんでしょうね。
S:
その通りです。それと、人間は自分の意思の占める比重が極めて大きいのです。意思によって神経の働きが違ってきます。意思が強ければ強いほど、必要性が絡んでくればもっとエネルギーの方向性が明確になります。そういう感覚が肥田式は明瞭になっています。他の方法は未だそれが曖昧なのです。
東大の先生でしたか、「最近また超能力がブームになっているようですが、私は超能力など信じません」と大新聞の論説で公言しておられました。確かに優れた専門知識はもっていらっしゃるのでしょうが、だからといって何もかも御存知とは限らない。御自分の御存知ない分野のことまで断言なさるのは如何がなものでしょう。中世の教会が天動説に震え上がってガリレオを沈黙させたのは愚かだと認めても、その後継者である学者の方々も教会と同様、将来新しい学問として認知されるかもしれない超能力というものを平気で無視するのですから。人間の脳はまだまだブラックボックスで、特に神経系は良く分からない部分があるのです。私はそろそろ真面目に学問の一分野として研究するべきだと思っています。ちゃんと研究されれば玉石混交のものがきちんと整理整頓され、「体温零度まで人間は生きています、学会の定説です」のようなデタラメは追放されるのですから。
spb-0034 at 19:42|Permalink
│
機関紙「活生」 対談 No.107−丹田の道程 with 姉弟子Kurahashi
S:
今まで、丹田と気合と強健術鍛練を中心に語ってまいりましたが、私の申し上げているこは、一般常識と大きく異なるのか?なかなか一般には通用しませんね。一時は真伝の公開を止めて、秘蔵してしまおうかと考えたこともありましたが、今は確実に伝えて行きたいと思っております。そんな思いにもかからわず、弟子の中には本質的なことが理解できず、型だけの形式化したものを有難がる奴もいます。
これは、単に複雑な数式を素晴らしいと思う人と、実用で自分の目的に合う数学を学ぶのとの違いです。そこには、権威付けのための高等数学が偉くて、四則演算が低級という意識があるからだと思うのです。日本は古代から律令制の下で官尊民卑の思想があるようで、昔は朝廷、次が武士、明治を過ぎれば軍隊で、戦後は敗戦ショックから科学が権威です。
丹田研究所を創ったときに、ある大学教授から「丹田研究所では駄目だ、丹田科学研究所にしなさい」と、強くアドバイスされました。そうしないと世間や学会に研究成果を発表する際に程度が低いと思われてしまうからだそうです。
ですが、科学は現象を見て本質を探ることです。神に似せて創られた人間の能力は、大変に摩訶不思議なものです。最近では精密機械や道具が発達して人間が要らなくなるような考え方さえありますが、その機械や道具も人間が作り出したものです。東北大学の学長で最先端の学者が「自分は科学者だから感性を鈍らせないよう毎日心掛けている」と話していました。感性が鈍るのが怖いと。それを凄いことだと思いました。
K:
でも、学者が何故だろう、何故かしらと思うのを止めたら只の人ですよ。
S:
それでは一般の研究者は違うのですか? 何の研究者であっても、たとえ高名でなくても、常に何でだろう? 何故かしら?と、考えています。これは研究者だけでなく、物事の本質を見詰めている人々の体質です。
K:
確かにそうですね。
S:
私は高校入学直後、坐れない、歩けない状態の大怪我をして約二年間寝て過ごしました。その時に、人生とは何かと考えたり、自分の将来に絶望して遺書を書いたり、散々思い悩んで、迷いに迷った時期がありました。そんな時に禅と出会いました。それまで武道一本で、禅を知ったときに頭を「ガーン!」とはり倒されて眼から鱗が落ちる、の喩えの通りの衝撃でした。
禅は真面目であり、間抜けであり、言葉のパズルでもあり、遊び感覚も茶目っ気もある。精神を全開して観察力と好奇心と行動力を合一して息する者達の哲学です。それはそれは広くて奥深いものですよ。禅にハマッても、二十歳代は迷って迷って迷走状態です。まぁ、人生色々ありましてハタと気付いたのです。禅は素晴らしいし、書かれている書物もよろしい、しかし「悟り」そのものや悟道の人が見えない。それで本物の悟りを体得するために聖中心道を目指すようになったのです。
そうしてもう一つの探求が摩訶不思議でした。摩訶不思議即ち「念力」といわれている力が実在すると確信していて、それを自由にしたいと思いました。それらを目指して鍛錬する、という目的が明確になったのです。この時に二代目を継承された肥田道夫先生との出会いがありました。
K:
悟りと念力獲得を目指した真意というのは?
S:
摩訶不思議は武道や芸道、修行などに様々な例があります、その追求の中でも、摩訶不思議の本質や念力が一番実際に分かり易いのが聖中心道だったのです。私は道夫先生から約七年間ほとんど個人教授で全伝の真伝を学びました。ところが七年目くらいから肥田家の遺産相続争いの様なゴタゴタで、落ち着いて学べる状態でなくなりました。当時、私が笹塚で指導していた弟子達の中から肥田家の内紛に積極的に関わる奴らが現れまして、厚顔無恥で非常識な奴らが徒党を組んで団体を設立し、今でも肥田家公認の正統を名乗りデタラメを指導しています。春充先生に見込まれて婿養子になった道夫先生は肥田家を追い出され、春充先生の次女が選んだ分けのわからない者が肥田式の後継者です。私は常識も判らない奴を相手にしているのが馬鹿馬鹿しくなり、道場を閉めて肥田式の指導を止めました。その間に一人コツコツと迷い悩みながら鍛練しておりました。しかし、迷い悩んだことで言葉を知りました。もし行きつ戻りつ、堂々巡りしながら、さらに迷い悩み苦しんで考えなかったら、本質や法則の何たるかに触れることができなかったでしょうね。
K:
「艱難汝を珠にする」ということですね。
S:
気障な言い方をすれば、その御蔭で象徴的なものを具象化する表現手段をもてました。それに、私は大怪我のリハビリでヨガと中国拳法を必死でやり込みました。そのご縁で超能力とは?ということを学問として思考する方法論を築山先生という不思議な先生から学ぶことが出来ました。
この方はクンダリーニヨーガの達人で、スワミシバリンガムを日本に招いて研究をされていた方です。先生御自身も、帰還不能な戦場から奇跡的に生還した体験を持ち、臨死体験もしています。帰国後事業で成功され、私が弟子入りしたのは七十才の時でしたが、丹田開発の重要性を毎回強調されていましたね。そのことがあって『丹田研究所』を設立したのです。
それから聖中心道を学んだのですが、遺産騒動で気合や型以外の重要部分が中途半端になり、悩んで再度ヨガを始めた時に、不思議な縁を感じたのです。紹介でヨーガを学ぶことになった羽成孝先生がシバリンガム先生の弟子と分かったのです。そこへオウム騒動で弟子が止めて人が集まらない。そんな状態でしたからマンツーマンで指導していただき、秘伝のクンダリーニのコントロール法を伝授して頂きました。
三年目に背骨をシュと上昇した体感をしたときは感激しましたね。その後、小悟というのを経験しました。このような経緯を振り返り、今は原点に戻って、悟りや丹田、念力研究を摩訶不思議学と名付けています。
今まで、丹田と気合と強健術鍛練を中心に語ってまいりましたが、私の申し上げているこは、一般常識と大きく異なるのか?なかなか一般には通用しませんね。一時は真伝の公開を止めて、秘蔵してしまおうかと考えたこともありましたが、今は確実に伝えて行きたいと思っております。そんな思いにもかからわず、弟子の中には本質的なことが理解できず、型だけの形式化したものを有難がる奴もいます。
これは、単に複雑な数式を素晴らしいと思う人と、実用で自分の目的に合う数学を学ぶのとの違いです。そこには、権威付けのための高等数学が偉くて、四則演算が低級という意識があるからだと思うのです。日本は古代から律令制の下で官尊民卑の思想があるようで、昔は朝廷、次が武士、明治を過ぎれば軍隊で、戦後は敗戦ショックから科学が権威です。
丹田研究所を創ったときに、ある大学教授から「丹田研究所では駄目だ、丹田科学研究所にしなさい」と、強くアドバイスされました。そうしないと世間や学会に研究成果を発表する際に程度が低いと思われてしまうからだそうです。
ですが、科学は現象を見て本質を探ることです。神に似せて創られた人間の能力は、大変に摩訶不思議なものです。最近では精密機械や道具が発達して人間が要らなくなるような考え方さえありますが、その機械や道具も人間が作り出したものです。東北大学の学長で最先端の学者が「自分は科学者だから感性を鈍らせないよう毎日心掛けている」と話していました。感性が鈍るのが怖いと。それを凄いことだと思いました。
K:
でも、学者が何故だろう、何故かしらと思うのを止めたら只の人ですよ。
S:
それでは一般の研究者は違うのですか? 何の研究者であっても、たとえ高名でなくても、常に何でだろう? 何故かしら?と、考えています。これは研究者だけでなく、物事の本質を見詰めている人々の体質です。
K:
確かにそうですね。
S:
私は高校入学直後、坐れない、歩けない状態の大怪我をして約二年間寝て過ごしました。その時に、人生とは何かと考えたり、自分の将来に絶望して遺書を書いたり、散々思い悩んで、迷いに迷った時期がありました。そんな時に禅と出会いました。それまで武道一本で、禅を知ったときに頭を「ガーン!」とはり倒されて眼から鱗が落ちる、の喩えの通りの衝撃でした。
禅は真面目であり、間抜けであり、言葉のパズルでもあり、遊び感覚も茶目っ気もある。精神を全開して観察力と好奇心と行動力を合一して息する者達の哲学です。それはそれは広くて奥深いものですよ。禅にハマッても、二十歳代は迷って迷って迷走状態です。まぁ、人生色々ありましてハタと気付いたのです。禅は素晴らしいし、書かれている書物もよろしい、しかし「悟り」そのものや悟道の人が見えない。それで本物の悟りを体得するために聖中心道を目指すようになったのです。
そうしてもう一つの探求が摩訶不思議でした。摩訶不思議即ち「念力」といわれている力が実在すると確信していて、それを自由にしたいと思いました。それらを目指して鍛錬する、という目的が明確になったのです。この時に二代目を継承された肥田道夫先生との出会いがありました。
K:
悟りと念力獲得を目指した真意というのは?
S:
摩訶不思議は武道や芸道、修行などに様々な例があります、その追求の中でも、摩訶不思議の本質や念力が一番実際に分かり易いのが聖中心道だったのです。私は道夫先生から約七年間ほとんど個人教授で全伝の真伝を学びました。ところが七年目くらいから肥田家の遺産相続争いの様なゴタゴタで、落ち着いて学べる状態でなくなりました。当時、私が笹塚で指導していた弟子達の中から肥田家の内紛に積極的に関わる奴らが現れまして、厚顔無恥で非常識な奴らが徒党を組んで団体を設立し、今でも肥田家公認の正統を名乗りデタラメを指導しています。春充先生に見込まれて婿養子になった道夫先生は肥田家を追い出され、春充先生の次女が選んだ分けのわからない者が肥田式の後継者です。私は常識も判らない奴を相手にしているのが馬鹿馬鹿しくなり、道場を閉めて肥田式の指導を止めました。その間に一人コツコツと迷い悩みながら鍛練しておりました。しかし、迷い悩んだことで言葉を知りました。もし行きつ戻りつ、堂々巡りしながら、さらに迷い悩み苦しんで考えなかったら、本質や法則の何たるかに触れることができなかったでしょうね。
K:
「艱難汝を珠にする」ということですね。
S:
気障な言い方をすれば、その御蔭で象徴的なものを具象化する表現手段をもてました。それに、私は大怪我のリハビリでヨガと中国拳法を必死でやり込みました。そのご縁で超能力とは?ということを学問として思考する方法論を築山先生という不思議な先生から学ぶことが出来ました。
この方はクンダリーニヨーガの達人で、スワミシバリンガムを日本に招いて研究をされていた方です。先生御自身も、帰還不能な戦場から奇跡的に生還した体験を持ち、臨死体験もしています。帰国後事業で成功され、私が弟子入りしたのは七十才の時でしたが、丹田開発の重要性を毎回強調されていましたね。そのことがあって『丹田研究所』を設立したのです。
それから聖中心道を学んだのですが、遺産騒動で気合や型以外の重要部分が中途半端になり、悩んで再度ヨガを始めた時に、不思議な縁を感じたのです。紹介でヨーガを学ぶことになった羽成孝先生がシバリンガム先生の弟子と分かったのです。そこへオウム騒動で弟子が止めて人が集まらない。そんな状態でしたからマンツーマンで指導していただき、秘伝のクンダリーニのコントロール法を伝授して頂きました。
三年目に背骨をシュと上昇した体感をしたときは感激しましたね。その後、小悟というのを経験しました。このような経緯を振り返り、今は原点に戻って、悟りや丹田、念力研究を摩訶不思議学と名付けています。
spb-0034 at 19:41|Permalink
│
機関紙「活生」 対談 No.105−丹田の道程 with 姉弟子Kurahashi
S:
鍛錬の結果は、鍛錬を通して得た身体の経験値です。この経験値の中には感覚の鋭敏もあります。毎日同じことを繰り返して行っていながら、効果とか感覚は、その時の体力や気力、精神状態によって微妙に違ってきます。そんな鍛練の中で時として、呼吸・精神・肉体が一致して凄い力が全身に漲る時があります。それを経験すると止められません、それこそ喩えようのないほどの快感です。これを「小悟』と申します。よく初心者レベルの鍛練で、突然に小悟という状態に到るなどをいう方がおりますが、かなりおかしな言い方ですね。
例えば、経験の少ない若者と老成した人が同じモノを見ても、まったく見方が違うではありませんか? 何らかで自信をもった、また技術の真を確信したなど、学識や経験がある状態に到達したときの「歓喜を伴う絶対的揺るぎのない確信的感覚」が「悟り」ではと考えています。肥田先生のように精神と肉体を両方向から鍛錬して、結果的に物理的な脳幹の思考停止に至ると、瑣末なことを思い患うことも無く、新しい脳回路の神経伝達網が全く異なる形態で働くのではと思うのです。その脳幹部が五感を働かせる方向の違いとして全く違う世界を観せるのではないでしょうか。
私は『月刊秘伝』の中で、これらのことを明確に書きましたが、強健術は「腰腹部に生じた強大な力が、下腹と仙骨の間に分布する脳の神経組織と同じ性質の副交感神経系の仙骨神経叢に刺激を与え、その刺激が脊椎神経を伝達して脳幹を思考停止に導く」、喩えると、一時代前の遊園地にあったハンマーで床の杭を力一杯叩くと反動で撞木が押し上げられてゴングが鳴る、あれに似ていると思うのです。ハンマーで床の杭を叩く力が弱ければ頭上のゴングに力が到達できないのです。鍛練での腹圧・腰圧の同量、どちらが足りなくても結局は仙骨神経の刺激が脳幹に届かないのですね。悟りや大悟徹底という精神活動の延長にある感覚を、生理解剖上から図と解説付きで説明なさったのは肥田先生が初めてです。禅の師家でも歴史上大悟した方は数名ですので、このことは画期的なことです。しかも肥田先生はその効果や活用法まで示唆しておられます。すべて自前で、他人の文章や理論を引用したものではなく、自分が実際に研究しながら鍛錬した体験からですから、ここまで完成したのだと思います。
K:
ヨガのクンダリーニが脳の天辺まで昇華するという記述に似ているような気がするのですが、それと同じですか?
S:
私も一時ヨーガに熱中していました。インドでも日本でも尾てい骨に眠るクンダリーニパワーを脳に昇華したという人はいますが、実際の体験はほとんど観念で言っておられますね。私なりにこの手の文献を網羅してみても、生理解剖上での説明は全くありませんでしたね。
K:
実際には昇華していないのに、錯覚しているという意味ですか?
S:
クンダリーニとは何かの定義を誰もしていません。だから伝承の中のパワーを各自がバラバラに自己装飾的に都合のよい形で解釈しています。本格的に論ずるのなら、ここから議論すべきですね。実際には、昇華しているのかもしれませんが、そういう知識を持っておられないから科学的説明が出来ず、神の啓示とか、自己賛美的な、言葉を変えれば誤魔化し的な用語になってしまう、という意味です。
K:
なぁ〜るほど、科学的に説明できることを、神秘的な曖昧な言葉にすり替えてしまうのですね。それで、脳幹の思考停止で物事の考え方や見方が全く変わるのは何故ですか?
S:
拘りや思い込み、既成観念から開放されるからでしょう。認識の方法や力学的力加減が微妙にコントロールできるなど、心身の集中力の鋭さが様々に使えるから、と考えています。
K:
目の見える人は何かを見ても、これは何々と思って見ていますが、今まで目が見えなかった人の目が見えるようになったという感じなのでしょうか?
S:
集中の訓練を繰り返して、観察力を深めた芸術家と普通の人との違いですね。また、現象の中に働く法則性、これを本質と申しますが、そこを見つめる感性の有無で能力の発揮に違いが出るのです。私は基本的に人の能力差は無いと思っています。現象に対する認識の違いで能力に差ができるのだと思います。
K:
脳幹の思考停止=超能力って単純に考えてしまうのですが。
S:
超能力を定義してみてください、脳幹の思考停止でできる超能力とできない超能力があると思うのです。
K:
まあナンデモアリ、何だか分からないから超能力!って場合もあるんですけど。当然、生理解剖学上から科学的に考えうる能力といったら、知力が向上するとか集中力が高まるとかですけど、それを何の目的で高めたいか・・・になるわけですね。
S:
人は興味の対象にしか集中できないのです。
K:
あ〜、どうしても漫画や小説の中のような超能力しか思い浮かばない〜。
S:
私が理解できないのは、超能力が何故必要なのかということです。一つの能力がちょっと飛び抜けただけで天才です。集中力があれば興味のあることをとことん追求すれば良い、発想が良ければ様々な企画を提案すれば良い。使う方向が決まれば、どういう風にでも延ばせるのです。超能力などというものを持ったら人間は壊れてしまうと思うのです。
K:
火事場の馬鹿力をいつも使っていたら破綻しますよね。
S:
そこまで行かなくても、普段一時間しか鍛錬していない人が私と一緒に三時間鍛錬したら、当然翌日から一週間は筋肉痛で動けなくなりますよ。超能力なる火事場の馬鹿力を使いすぎれば、二度と動けなくなる場合もあります。
鍛錬の結果は、鍛錬を通して得た身体の経験値です。この経験値の中には感覚の鋭敏もあります。毎日同じことを繰り返して行っていながら、効果とか感覚は、その時の体力や気力、精神状態によって微妙に違ってきます。そんな鍛練の中で時として、呼吸・精神・肉体が一致して凄い力が全身に漲る時があります。それを経験すると止められません、それこそ喩えようのないほどの快感です。これを「小悟』と申します。よく初心者レベルの鍛練で、突然に小悟という状態に到るなどをいう方がおりますが、かなりおかしな言い方ですね。
例えば、経験の少ない若者と老成した人が同じモノを見ても、まったく見方が違うではありませんか? 何らかで自信をもった、また技術の真を確信したなど、学識や経験がある状態に到達したときの「歓喜を伴う絶対的揺るぎのない確信的感覚」が「悟り」ではと考えています。肥田先生のように精神と肉体を両方向から鍛錬して、結果的に物理的な脳幹の思考停止に至ると、瑣末なことを思い患うことも無く、新しい脳回路の神経伝達網が全く異なる形態で働くのではと思うのです。その脳幹部が五感を働かせる方向の違いとして全く違う世界を観せるのではないでしょうか。
私は『月刊秘伝』の中で、これらのことを明確に書きましたが、強健術は「腰腹部に生じた強大な力が、下腹と仙骨の間に分布する脳の神経組織と同じ性質の副交感神経系の仙骨神経叢に刺激を与え、その刺激が脊椎神経を伝達して脳幹を思考停止に導く」、喩えると、一時代前の遊園地にあったハンマーで床の杭を力一杯叩くと反動で撞木が押し上げられてゴングが鳴る、あれに似ていると思うのです。ハンマーで床の杭を叩く力が弱ければ頭上のゴングに力が到達できないのです。鍛練での腹圧・腰圧の同量、どちらが足りなくても結局は仙骨神経の刺激が脳幹に届かないのですね。悟りや大悟徹底という精神活動の延長にある感覚を、生理解剖上から図と解説付きで説明なさったのは肥田先生が初めてです。禅の師家でも歴史上大悟した方は数名ですので、このことは画期的なことです。しかも肥田先生はその効果や活用法まで示唆しておられます。すべて自前で、他人の文章や理論を引用したものではなく、自分が実際に研究しながら鍛錬した体験からですから、ここまで完成したのだと思います。
K:
ヨガのクンダリーニが脳の天辺まで昇華するという記述に似ているような気がするのですが、それと同じですか?
S:
私も一時ヨーガに熱中していました。インドでも日本でも尾てい骨に眠るクンダリーニパワーを脳に昇華したという人はいますが、実際の体験はほとんど観念で言っておられますね。私なりにこの手の文献を網羅してみても、生理解剖上での説明は全くありませんでしたね。
K:
実際には昇華していないのに、錯覚しているという意味ですか?
S:
クンダリーニとは何かの定義を誰もしていません。だから伝承の中のパワーを各自がバラバラに自己装飾的に都合のよい形で解釈しています。本格的に論ずるのなら、ここから議論すべきですね。実際には、昇華しているのかもしれませんが、そういう知識を持っておられないから科学的説明が出来ず、神の啓示とか、自己賛美的な、言葉を変えれば誤魔化し的な用語になってしまう、という意味です。
K:
なぁ〜るほど、科学的に説明できることを、神秘的な曖昧な言葉にすり替えてしまうのですね。それで、脳幹の思考停止で物事の考え方や見方が全く変わるのは何故ですか?
S:
拘りや思い込み、既成観念から開放されるからでしょう。認識の方法や力学的力加減が微妙にコントロールできるなど、心身の集中力の鋭さが様々に使えるから、と考えています。
K:
目の見える人は何かを見ても、これは何々と思って見ていますが、今まで目が見えなかった人の目が見えるようになったという感じなのでしょうか?
S:
集中の訓練を繰り返して、観察力を深めた芸術家と普通の人との違いですね。また、現象の中に働く法則性、これを本質と申しますが、そこを見つめる感性の有無で能力の発揮に違いが出るのです。私は基本的に人の能力差は無いと思っています。現象に対する認識の違いで能力に差ができるのだと思います。
K:
脳幹の思考停止=超能力って単純に考えてしまうのですが。
S:
超能力を定義してみてください、脳幹の思考停止でできる超能力とできない超能力があると思うのです。
K:
まあナンデモアリ、何だか分からないから超能力!って場合もあるんですけど。当然、生理解剖学上から科学的に考えうる能力といったら、知力が向上するとか集中力が高まるとかですけど、それを何の目的で高めたいか・・・になるわけですね。
S:
人は興味の対象にしか集中できないのです。
K:
あ〜、どうしても漫画や小説の中のような超能力しか思い浮かばない〜。
S:
私が理解できないのは、超能力が何故必要なのかということです。一つの能力がちょっと飛び抜けただけで天才です。集中力があれば興味のあることをとことん追求すれば良い、発想が良ければ様々な企画を提案すれば良い。使う方向が決まれば、どういう風にでも延ばせるのです。超能力などというものを持ったら人間は壊れてしまうと思うのです。
K:
火事場の馬鹿力をいつも使っていたら破綻しますよね。
S:
そこまで行かなくても、普段一時間しか鍛錬していない人が私と一緒に三時間鍛錬したら、当然翌日から一週間は筋肉痛で動けなくなりますよ。超能力なる火事場の馬鹿力を使いすぎれば、二度と動けなくなる場合もあります。
spb-0034 at 19:39|Permalink
│
機関紙「活生」 対談 No.103−丹田の道程 with 姉弟子Kurahashi
S:
鍛錬は目的を明確にして行なわないと効果はだせません。人間の体は勝手に動いている訳ではなく、精神が体を動かしています。精神の健常性は、目的が明確であるときに、成すべきことが分かっているときに力が出せるのです。何をすれば良いか分からない、どの程度行えば良いか分からない状態では力を発揮することは出来ません。ですから、鍛錬はなんとなくとか、行っていればそのうちという状態では効果が出ません。
私は入門してくるお弟子さんに、「鍛錬の目的を自分の言葉で具体的に、明確に説明しなさい」と言います。それが出来る人は向上は簡単です。つまり、どの程度の鍛錬をどのくらいの期間行うか、費用はどの程度掛かるかまで、ほとんどのことは事前に計算できます。目的が明確かどうか、その一点で上手下手の区別ができてしまうのです。次に、目的をやり遂げようとする熱意、執念の度合いです。情熱、熱意、目的を説明するときには、そういうものが言葉の端々に感じられます。上手になるだろうとか、駄目だろうとか、その時点で分かります。鍛錬が始まってから才能の有無が見極められるようなものではありません。才能は、それ以前に分かってしまっています。
K:
大学を選ぶのに、これを勉強したいから○○大学のこの学部!と決めて勉強するのと、取り敢えず今の成績で入れる大学という感じですか。
S:
もう、そういう時代ではありません。人を突き動かすものは目的意識ばかりではありませんから、流行や目先の興味で目的が曖昧なまま何かを始めてしまうのですが、信念の無い方や自己を確立しておられない方は何をしても長続きしません。「無くて七癖」と申しますが、そういう無意識の部分に突き動かされ、目的も曖昧なまま何かをしているのです。
無意識の上位に意識的運動を置くのは大変なことです。一日二十四時間のうち、大半は無意識に動いています。意識的状態であるほうが素晴らしいと言うには、よほど強い目的意識・情熱が無ければ無理なのです。命懸けになるような状況がないと難しい。肥田先生がそれを二年間で達成したのは、国家・民衆の為に役立ちたいという燃え上がるような熱意にもかかわらず、病弱短命な家系に生まれ、肉体が虚弱であるという劣等感に突き動かされたからでしょう。普通の暮らしをしている人々には、そういう熱意はありません。
それでは効果的な鍛練は無理かと言うと、そうでもありません。それは「継続」です。人によっては『ダラダラ続けて、それで良いのか』などと茶化すのですが、毎日一時間二時間続けて御覧なさい。毎日です、どんな状況でも毎日必ず続けると言うのは、言葉でいうほど簡単ではありません。風邪を引いていようと二日酔いだろうと、どんな場合でも毎日必ず行うのです。鍛錬は病気とは関係ありません。生きていれば呼吸は出来るのです、呼吸が出来れば身体は動きます。ですから身体が動かなければ寝たままの呼吸法でも良いのです。単なる健康法を行なっている訳ではないのですから、熱が出ようと咳がでようと鍛錬は出来るのです。
そうしておりますと、体力・気力と共に心眼と申しましょうか、感受性が身についてまいります。精神と肉体は一体と言われておりますが一般の方は完全に一体ではありません。一体化のための接着剤が必要なのです。それが感受性です。精神が肉体に行動を指示する、肉体からは現在の肉体情報が伝えられる、精神と肉体のキャッチ・ボールを繰り返すうちに観察能力、そして次第にインスピレーションが発達して、考えなくても最善の判断や行動ができるようになります。それが万芸に通じるということの一端なのだと思います。
人間が一番してはいけないことは「緊張」です。緊張すれば能力が落ちます。緊張させて能力を発揮させることなど一つもありません。勿論、緊張はコントロールできますから、コントロール可能な緊張なら宜しいのです。しかし、通常緊張と言うのはコントロール不可能です。弛むのより始末が悪いのです。弛みの場合はまだ指導できます。自分が緊張していることを理解していない方を指導するのは無理です。柔道でも野球でも、何でもそうですが、緊張している人は何をやってもうまくいきません。
K:
自分で自分の思うとおりに動けない、コチコチに固まっている状態ですね。
S:
特に運動の場合は致命的です。殆どの運動は瞬間的に行われるので自己観察は殆どできません。緊張していると全く出来ないのです。緊張=鈍り、自己観察の欠如と緊張は同じ意味です。緊張している人に忠告しても緊張が増すだけなのです。
K:
分かります、力を抜け!とか、そうじゃなくて○○だ!とか言われても、自分は言われた事をやっているつもりなのに違うんじゃ、どーすりゃ良いんだ!って混乱するんです。
S:
そういう場合、何を教えても無駄だというのが経験上分かっています。それでは、どうするかと尋ねられれば、答えは待つだけです。
K:
疲れて緊張が緩むのをですか?
S:
自分が緊張していることを自覚して工夫しだすまでです。それが分かってきたら、と申しましても一年や二年ではありませんが、コツコツ続けていけば自己観察能力がついてきて、緊張が悪いということが分かるようになります。そして緊張が取れることが理解できるようになると、不思議に何をやっても上手くなります。肥田先生は万芸の泉と仰っておられましたが、腹が出来ると腰が入るのです。力加減がコントロールできるようになるのでしょう。
鍛錬は目的を明確にして行なわないと効果はだせません。人間の体は勝手に動いている訳ではなく、精神が体を動かしています。精神の健常性は、目的が明確であるときに、成すべきことが分かっているときに力が出せるのです。何をすれば良いか分からない、どの程度行えば良いか分からない状態では力を発揮することは出来ません。ですから、鍛錬はなんとなくとか、行っていればそのうちという状態では効果が出ません。
私は入門してくるお弟子さんに、「鍛錬の目的を自分の言葉で具体的に、明確に説明しなさい」と言います。それが出来る人は向上は簡単です。つまり、どの程度の鍛錬をどのくらいの期間行うか、費用はどの程度掛かるかまで、ほとんどのことは事前に計算できます。目的が明確かどうか、その一点で上手下手の区別ができてしまうのです。次に、目的をやり遂げようとする熱意、執念の度合いです。情熱、熱意、目的を説明するときには、そういうものが言葉の端々に感じられます。上手になるだろうとか、駄目だろうとか、その時点で分かります。鍛錬が始まってから才能の有無が見極められるようなものではありません。才能は、それ以前に分かってしまっています。
K:
大学を選ぶのに、これを勉強したいから○○大学のこの学部!と決めて勉強するのと、取り敢えず今の成績で入れる大学という感じですか。
S:
もう、そういう時代ではありません。人を突き動かすものは目的意識ばかりではありませんから、流行や目先の興味で目的が曖昧なまま何かを始めてしまうのですが、信念の無い方や自己を確立しておられない方は何をしても長続きしません。「無くて七癖」と申しますが、そういう無意識の部分に突き動かされ、目的も曖昧なまま何かをしているのです。
無意識の上位に意識的運動を置くのは大変なことです。一日二十四時間のうち、大半は無意識に動いています。意識的状態であるほうが素晴らしいと言うには、よほど強い目的意識・情熱が無ければ無理なのです。命懸けになるような状況がないと難しい。肥田先生がそれを二年間で達成したのは、国家・民衆の為に役立ちたいという燃え上がるような熱意にもかかわらず、病弱短命な家系に生まれ、肉体が虚弱であるという劣等感に突き動かされたからでしょう。普通の暮らしをしている人々には、そういう熱意はありません。
それでは効果的な鍛練は無理かと言うと、そうでもありません。それは「継続」です。人によっては『ダラダラ続けて、それで良いのか』などと茶化すのですが、毎日一時間二時間続けて御覧なさい。毎日です、どんな状況でも毎日必ず続けると言うのは、言葉でいうほど簡単ではありません。風邪を引いていようと二日酔いだろうと、どんな場合でも毎日必ず行うのです。鍛錬は病気とは関係ありません。生きていれば呼吸は出来るのです、呼吸が出来れば身体は動きます。ですから身体が動かなければ寝たままの呼吸法でも良いのです。単なる健康法を行なっている訳ではないのですから、熱が出ようと咳がでようと鍛錬は出来るのです。
そうしておりますと、体力・気力と共に心眼と申しましょうか、感受性が身についてまいります。精神と肉体は一体と言われておりますが一般の方は完全に一体ではありません。一体化のための接着剤が必要なのです。それが感受性です。精神が肉体に行動を指示する、肉体からは現在の肉体情報が伝えられる、精神と肉体のキャッチ・ボールを繰り返すうちに観察能力、そして次第にインスピレーションが発達して、考えなくても最善の判断や行動ができるようになります。それが万芸に通じるということの一端なのだと思います。
人間が一番してはいけないことは「緊張」です。緊張すれば能力が落ちます。緊張させて能力を発揮させることなど一つもありません。勿論、緊張はコントロールできますから、コントロール可能な緊張なら宜しいのです。しかし、通常緊張と言うのはコントロール不可能です。弛むのより始末が悪いのです。弛みの場合はまだ指導できます。自分が緊張していることを理解していない方を指導するのは無理です。柔道でも野球でも、何でもそうですが、緊張している人は何をやってもうまくいきません。
K:
自分で自分の思うとおりに動けない、コチコチに固まっている状態ですね。
S:
特に運動の場合は致命的です。殆どの運動は瞬間的に行われるので自己観察は殆どできません。緊張していると全く出来ないのです。緊張=鈍り、自己観察の欠如と緊張は同じ意味です。緊張している人に忠告しても緊張が増すだけなのです。
K:
分かります、力を抜け!とか、そうじゃなくて○○だ!とか言われても、自分は言われた事をやっているつもりなのに違うんじゃ、どーすりゃ良いんだ!って混乱するんです。
S:
そういう場合、何を教えても無駄だというのが経験上分かっています。それでは、どうするかと尋ねられれば、答えは待つだけです。
K:
疲れて緊張が緩むのをですか?
S:
自分が緊張していることを自覚して工夫しだすまでです。それが分かってきたら、と申しましても一年や二年ではありませんが、コツコツ続けていけば自己観察能力がついてきて、緊張が悪いということが分かるようになります。そして緊張が取れることが理解できるようになると、不思議に何をやっても上手くなります。肥田先生は万芸の泉と仰っておられましたが、腹が出来ると腰が入るのです。力加減がコントロールできるようになるのでしょう。
spb-0034 at 19:38|Permalink
│
機関紙「活生」 対談 No.102−丹田の道程 with 姉弟子Kurahashi
S:
人生の活学になるような稽古に誤解があるのではないかと思います。稽古には目的があります。もちろん目的は複数でも構いませんが、目的を自分の言葉や文章で表現できるというのが稽古の完成なのです。自分のしていることを説明できないようでは効果も期待できませんね。
K:
呼吸法を鍛錬すれば健康に良いと本に書いてある程度では理解ができていない、ということは分かりますが。
S:
手を下ろす、手を開く、つま先を伸ばす、足を開く。その動作は何の目的でなされ、どこにどんな効果があるか。そういう細かいところまで考えて鍛錬していますか? つま先を伸ばすときも足の開く角度はどうか、そういうことの意味が言葉で表現できるようになることが上達ということです。
K:
そういう意味ですか。以前太極拳を習ったとき、好い加減でも取り敢えず型の真似できるのですが、顔の方向とか体の向きとかはデタラメでした。元は拳法だったのだから、敵がどこにいるか考えて演じてみろと言われましたが、型から型へ移るのがやっとでした。肥田式はもっと微妙ですから、手を開くか握り込むか、それだけでも目的も効果も違うんですね。正直にいいますと、形さえ真似してそれらしく見えるように出来れば、健康になったり頭が良くなったりするんだという感覚でやってきました。
S:
自分で鍛錬していて思うのですが、型には二面性があります。本質と現象です。今、抗酸化の原理を考えているのですが、化学の本を読みこんでいると、学位を取るために学んでいる人と本質を知りたくて研究している学者がいるようです。本質を理解しようと思ったら、他の研究者の書いた論文を適当に組み合わせただけでは無理でしょう。
肥田先生は本質を追及された方ですから、型そのものに深い奥行きを含有させました。ところが型を動作の連続として捉えると、表面をなぞるだけで終わります。そのような学びでも有効性があるのかと言えばありますが、本質的なところから観るとまったく無いのです。本質を理解した人間には少々の価値も意味も無いのです。ですがしかし、鍛練に型は必要です。
K:
というか、型が無かったら凡夫には学べません。誰かが、肥田式の型は高い山の登山路地図みたいなものだ、山の頂上から下を見れば、いくつものルートがある。そこに上った人は見えるルートを書き残すけれど、山の麓にいる人は自分が登っている前後しか見えない。取り敢えず頂上に辿り着けるだろうが、どこをどう歩いているのか分からない。もしくは盲人巨象を撫でる、という状態ですね。
S:
型を修練するときは「呼吸」・「動作」、それを安定させるための「姿勢」が必要です。この三つが手を上げるときの呼吸やバランス・速度、その目的によって横から上げるか前から上げるか、その時は手を開くのか、拳なのか、突き上げるのか、また次の動作がどのようなものか、そういう違いが生じるのです。
K:
なるほど、少しは自己観察をしているつもりでしたが、全くレベルの違う話だったのですね。腹を膨らませるとパンツの紐がきつく感じるとか、胸式呼吸だとブラジャーの紐が食い込む感じがするようになったとか・・そういう現象を観察していたんです。
S:
何のためにこの型を行うのかという本質を考えてください。殆どの修行者が現象で始まり、現象で終わってしまうのです。これが極意だからこそ簡易的な肥田式の最大の欠点なのです。創始者である春充先生は天才でした。ところが肥田式を学ぶ人々の大半は凡人なのです。中には劣等感の裏がえしである超能力を欲しがる人もおります。そのため、肥田先生の動作を真似る、態度物腰を真似る、話し方を真似る、文体を真似る、それで肥田式が上達したと誤解するのです。頭を剃ったり、腹を膨らませるために食いまくったり、超能力を得るのだと幻覚茸を売ったりしている人もいます。因みに、インドネシア製の擂粉木で磨り潰すのが極意だそうです。
K:
嘘っ!みたいな話ですね。そんなものを肥田式の名前で売るのですか?
S:
それを買った人がいて、強健術の修練だけでは超能力は出ない。幻覚キノコを利用すると超能力が早く出るとか言っているそうです。そういう人が信奉され尊敬されていると・・・聞くところでは、この幻覚キノコの乱用で精神病院に入れられた人もいるようです。
K:
幻覚キノコを売っている当人ではなくて?
S:
売っている当人は危険を知っているから使用しないでしょう。また、自分以外は正統ではないと名乗っている肥田家公認派は、アルコール中毒で健康を害して秘密裏に人工透析を受けているそうです。その人を見ると手が震えています。強健とは無縁ですね。それでも肥田式強健術正統派を名乗って人を集めております。結局、強健術というのは単なるネーミングで、悟るための方法だから健康でなくても恥ずかしくないのです。
K:
それで悟れるとは思えません。昔弟の友人が健康法を始めたとき、健康のためなら死んでもよいとしゃかりになってジョギングしていましたが、そのノリですね。非駄式狂嫌術と改名しろ!と言いたくなりますね。
S:
コエダ式と読んで欲しいですね。電話で「コエダ式を習いたい」と言ってきた人がおりまして、一瞬意味不明でしたが、どーいう字か伺って納得しました。
K:
オリタシンチョウですね。昔中学生に調べ物を手伝ってくれと頼まれたのですが不明。字を書いてもらったら織田信長でした。しかし肥田式は基本的に健康法と思ってましたが。ああ、ムーとかで肥田春充先生が取り上げられたのは超能力の面からでした。
S:
健康な思考ではない人は普通の方法ではないものを探しますから。
spb-0034 at 19:36|Permalink
│
機関紙「活生」 対談 No.101−丹田の道程 with 姉弟子Kurahashi
K:
前回は、釈迦と高弟の無言の説法「蓮華微笑」を理解できるような感性がある人格育成を目的としているのが肥田式だ、という御話でした。
S:
鍛錬の際の悪習は、型を武道の技や術的に捉えてしまうということと、細部に気を取られ過ぎることです。特に長く鍛錬を続けている方や合同で鍛錬をなさる方は、型をいかにもそれっぽく上手に演じます。しかし鍛錬の本質というものは、型がどんなに上手に出来ても効果が出なければ意味が無いのです。肥田氏強健術とは「腰腹同量正中心の鍛錬」であって、型はそのための手段であり、その証拠として型そのものは上達に随って段々シンプルになってきます。型に秘伝や効果が有るのなら、型をシンプルにはしません! 学ぶ方の根本的なところに間違いがあるのですね。しかし、簡易強健術は健康法で鍛錬する方が多く、運動不足解消、筋力増強、骨格や姿勢の矯正など多目的に鍛錬されていて、肥田式というと簡易強健術型ですからいやになりますね。あえてとお断りしますが、まぁ〜本当のことを申せば、基本が身に付いていない初心者では、簡易強健術で腰腹同量を鍛錬することはほとんど難しいのです。現実的にこの型から学んだ方は、一人として真伝に進んだ方がいません。私の経験では、修練の進んだ方の鍛錬は力強く豪快で、結果的に腰腹同量だけになってまいります。さらにその奥に一歩入ると、動作は小さくなります。そういうことが体験できていると、型の上手・下手はまったく意味が無いのです。基本を体得せず、腰腹同量の真意を知らず、そういう型を行っておられる人々にとっては真偽を理解できないのです。ですから、爽快感も軽快感も、愉快感も感じられません。勿論、効果も出ません。本当のところは修行歴十年、二十年を自称する指導員の方でさえ、効果が出ていない人は沢山います。
K:
何が効果的と無駄な鍛錬を分けるのでしょうか?
S:
そこに思い込みや固定観念をぶち抜いた自己観察が必要なのです。自己観察抜きに鍛錬を行えば、効果はまったく出ません。実のところ、病気の治療を陰でしながら強健術を指導して、「肥田家公認で正統である」と威張っている変な奴もいます。一人稽古主体で動きや姿勢が独特ですから、素人は煙にまけるわけです。
肥田式を鍛錬なさる方には三つの派があります。一つは超能力派。肥田先生の超能力に憧れて超能力開発を目的に肥田式を鍛錬している方。もう一派は春充先生の型の真似をする派です。肥田式修行者の九割はそのどちらかです。残りの一割が基本からじっくりと積み上げてゆく活学派です。この少数派は、鍛錬のバイブル「聖中心道肥田式強健術」を片手に、なおかつ冷静な自己観察をしながら自問自答を繰り返して鍛錬をしている方々です。
K:
なるほど。「悪貨は良貨を駆逐する」という諺がありますが、いい加減なのが多すぎますね。・・・ではレベルを基本に戻しまして、最初は腰を反らすというだけでも痛いという状態から始めて、どうにか呼吸に基づく型を覚えました。そうしたら、型はどーでも良い、となると辛いですね。でも全く効果が出てない訳ではない。まだまだ短すぎる呼吸や、早過ぎる動作、力みの抜けない鍛錬ですけど・・・とにかく少しずつでも自己観察の訓練もしながら続けていけば、何とか・・・。
S:
ある時、突然腰腹同量になるのです。
K:
なったとき、自分で「あ、これだ!」と分かるものですか?
S:
分かります! すぐ分かります。悟りとは関係ありません。先日大手スーパーの指導者が「普通のサラリーマンとトップに差は無い。しかし二つだけ違うことがある。一つは運で、もう一つは腹、度胸です」と。さらに胆力の無い方はトップになっても病気になってしまうそうです。人生には危機に直面したり、困難な決断を迫られる場合が沢山あります。それをどう越えるか、そういう場合に持てる力を発揮できるかどうかは運と度胸に掛かっている訳です。
K:
私はしょっちゅうNHKのプロジェクトXを引き合いにだしますが、どの話も必ず思いもしない問題が出る、しかも難問です。それらの不可能に近い状況をどう克服したかなのですね。殆どが逆転の発想であり、途中で捨てられたアイディアの復活とかで問題を解決していくのです。どのケースも、問題解決の節目節目でちゃんと必要な人材やアイディア、資金援助をしてくれる人が用意されているような気がします。必要なときに必要なものが集められる、それだけの種を蒔いてあったかどうかということかな。肥田式というのは、腹を作るということばかりではなく、自己観察や反省を通して、縁や運の種を蒔くとか、そーいう観点でも物を見る訓練になっているですね。
S:
自己観察が出来るなら他者も観察できるのです。そうして反省や自問自答する、それを繰り返していけば、人との接し方も自ずから変わってきます。繰り返しますが、肥田式を含めて東洋の訓練方法は捨てる訓練です。余分なものを如何に切り捨てるか、余分な力を如何に抜くかが修行です。呼吸法で力が抜けない状態は、ヴァイオリンの胴に何かを詰め込んでいるようなものです。腹を共鳴板にして気合を送り出す訓練をしているのに、共鳴板に力みという詰め物をしてどうなります。
K:
あ、そういうイメージを持つと力を抜き易くなるかも知れません。捨てる、力を抜く。観察、反省・・・う〜ん、先は長い!
S:
それと日本人は生真面目な性格なのでしょう、左右均等に訓練したがったり、苦行を鍛錬と誤解しています。本来は、体にとって快感と思える鍛錬が正しい鍛錬なのです。
前回は、釈迦と高弟の無言の説法「蓮華微笑」を理解できるような感性がある人格育成を目的としているのが肥田式だ、という御話でした。
S:
鍛錬の際の悪習は、型を武道の技や術的に捉えてしまうということと、細部に気を取られ過ぎることです。特に長く鍛錬を続けている方や合同で鍛錬をなさる方は、型をいかにもそれっぽく上手に演じます。しかし鍛錬の本質というものは、型がどんなに上手に出来ても効果が出なければ意味が無いのです。肥田氏強健術とは「腰腹同量正中心の鍛錬」であって、型はそのための手段であり、その証拠として型そのものは上達に随って段々シンプルになってきます。型に秘伝や効果が有るのなら、型をシンプルにはしません! 学ぶ方の根本的なところに間違いがあるのですね。しかし、簡易強健術は健康法で鍛錬する方が多く、運動不足解消、筋力増強、骨格や姿勢の矯正など多目的に鍛錬されていて、肥田式というと簡易強健術型ですからいやになりますね。あえてとお断りしますが、まぁ〜本当のことを申せば、基本が身に付いていない初心者では、簡易強健術で腰腹同量を鍛錬することはほとんど難しいのです。現実的にこの型から学んだ方は、一人として真伝に進んだ方がいません。私の経験では、修練の進んだ方の鍛錬は力強く豪快で、結果的に腰腹同量だけになってまいります。さらにその奥に一歩入ると、動作は小さくなります。そういうことが体験できていると、型の上手・下手はまったく意味が無いのです。基本を体得せず、腰腹同量の真意を知らず、そういう型を行っておられる人々にとっては真偽を理解できないのです。ですから、爽快感も軽快感も、愉快感も感じられません。勿論、効果も出ません。本当のところは修行歴十年、二十年を自称する指導員の方でさえ、効果が出ていない人は沢山います。
K:
何が効果的と無駄な鍛錬を分けるのでしょうか?
S:
そこに思い込みや固定観念をぶち抜いた自己観察が必要なのです。自己観察抜きに鍛錬を行えば、効果はまったく出ません。実のところ、病気の治療を陰でしながら強健術を指導して、「肥田家公認で正統である」と威張っている変な奴もいます。一人稽古主体で動きや姿勢が独特ですから、素人は煙にまけるわけです。
肥田式を鍛錬なさる方には三つの派があります。一つは超能力派。肥田先生の超能力に憧れて超能力開発を目的に肥田式を鍛錬している方。もう一派は春充先生の型の真似をする派です。肥田式修行者の九割はそのどちらかです。残りの一割が基本からじっくりと積み上げてゆく活学派です。この少数派は、鍛錬のバイブル「聖中心道肥田式強健術」を片手に、なおかつ冷静な自己観察をしながら自問自答を繰り返して鍛錬をしている方々です。
K:
なるほど。「悪貨は良貨を駆逐する」という諺がありますが、いい加減なのが多すぎますね。・・・ではレベルを基本に戻しまして、最初は腰を反らすというだけでも痛いという状態から始めて、どうにか呼吸に基づく型を覚えました。そうしたら、型はどーでも良い、となると辛いですね。でも全く効果が出てない訳ではない。まだまだ短すぎる呼吸や、早過ぎる動作、力みの抜けない鍛錬ですけど・・・とにかく少しずつでも自己観察の訓練もしながら続けていけば、何とか・・・。
S:
ある時、突然腰腹同量になるのです。
K:
なったとき、自分で「あ、これだ!」と分かるものですか?
S:
分かります! すぐ分かります。悟りとは関係ありません。先日大手スーパーの指導者が「普通のサラリーマンとトップに差は無い。しかし二つだけ違うことがある。一つは運で、もう一つは腹、度胸です」と。さらに胆力の無い方はトップになっても病気になってしまうそうです。人生には危機に直面したり、困難な決断を迫られる場合が沢山あります。それをどう越えるか、そういう場合に持てる力を発揮できるかどうかは運と度胸に掛かっている訳です。
K:
私はしょっちゅうNHKのプロジェクトXを引き合いにだしますが、どの話も必ず思いもしない問題が出る、しかも難問です。それらの不可能に近い状況をどう克服したかなのですね。殆どが逆転の発想であり、途中で捨てられたアイディアの復活とかで問題を解決していくのです。どのケースも、問題解決の節目節目でちゃんと必要な人材やアイディア、資金援助をしてくれる人が用意されているような気がします。必要なときに必要なものが集められる、それだけの種を蒔いてあったかどうかということかな。肥田式というのは、腹を作るということばかりではなく、自己観察や反省を通して、縁や運の種を蒔くとか、そーいう観点でも物を見る訓練になっているですね。
S:
自己観察が出来るなら他者も観察できるのです。そうして反省や自問自答する、それを繰り返していけば、人との接し方も自ずから変わってきます。繰り返しますが、肥田式を含めて東洋の訓練方法は捨てる訓練です。余分なものを如何に切り捨てるか、余分な力を如何に抜くかが修行です。呼吸法で力が抜けない状態は、ヴァイオリンの胴に何かを詰め込んでいるようなものです。腹を共鳴板にして気合を送り出す訓練をしているのに、共鳴板に力みという詰め物をしてどうなります。
K:
あ、そういうイメージを持つと力を抜き易くなるかも知れません。捨てる、力を抜く。観察、反省・・・う〜ん、先は長い!
S:
それと日本人は生真面目な性格なのでしょう、左右均等に訓練したがったり、苦行を鍛錬と誤解しています。本来は、体にとって快感と思える鍛錬が正しい鍛錬なのです。
spb-0034 at 19:34|Permalink
│
機関紙「活生」 対談 No.100−丹田の道程 with 姉弟子Kurahashi
K:
毎度そうなのですが、マニュアル思考にどっぷり浸かっている人間にとって、肥田式は難しいなと感じるところです。修行とは己自身を知ることだ、と言葉の上では分かっていますが、自分がどのくらい自分に鈍感になってしまっていたか、どれほど運動不足だったか、どんなに過食していたか、修行していると言いながら自分を甘やかしているか認識させられてしまいます。それでも、久し振りに会った知人から、「顔色が良くなったし、いつも起抜けみたいにぼーっとしていた間抜け面が、少ししまってきたみたい」とか言われて、多少の成果は出ているなと思っているのですが。
S:
私がカルチャーセンターの講師でしたら、「そう、それは良かった。修行の成果が出始めましたね。更に一層修練なさってください」とでも申し上げるのですが・・・。実際は、そうではありませんので、そのようには申し上げません。殆どの方が健康法というものを、単に病気をしない、老化を抑える体を作る方法と思っておられます。それはそれで宜しいのですが、私はそういうものを行っているつもりも無ければ、指導しているつもりもありません。
例えば、人間だけが健康法を持ち、また言葉を持ちます。そして語彙を多く持ち、それを巧みに使う人々が優秀とされ、指導者として人の上に立っておりますが、それはとんでもない間違いだと思うのです。人間は所詮、言葉では自分を表現できないのです。ですから賢者は沈黙を選ぶのです。賢者の沈黙は単に言葉を語らないだけかというと、そうではありません。賢者の沈黙はパフォーマンスが出来る沈黙なのです。東洋の英知は、禅や仏の教えでも言葉ではありません。
K:
真理とは何ぞやという問いかけに、師が人差し指一本立てて、それを弟子がへへ〜って納得するような・・・あれですね。
S:
落語の禅問答ではないのですから。御釈迦様が蓮華の蕾の花一輪指し出すと、高弟は忽ち意味を理解してにっこり微笑んだ、という拈華微笑です。言葉は全くありません。その行為の中に真理があるのです。
K:
それは解説をしようとすれば、膨大な言葉を羅列し、それが悟りに関する究極の問答であるとか言っても、御釈迦様が伝えようとした内容と高弟が直感で理解した内容を書き尽くせないわけですよね。
S:
私は拈華微笑的パフォーマンスが出来る身体を作る、そういう運動を作ることも健康法と考えております。そのための鍛錬なのです。それには観察が必要なのです。よく見る、それが出来ない人間は、そこまで到達することはできません。肥田式の鍛錬であちこち痛みが出るなどということは、それ以前に不摂生、運動不足、食べ過ぎなどがあり、しかも自己観察もせずにマニュアル的に形だけの動きをしているからなのです。鍛錬以前の問題です。日常そのものが健康法になっていなければ無理です。それでは、修行や鍛錬は意味が無いのか、となるとそうではありません。そこでもう一つの柱、沈黙が意味を持つような人格形成、生き方、動きなどが出来ることが人間の生きる価値であり、生きてきた価値なのです。それがいつの間にか言葉や理性が優先され、体験も経験も伴わない机上の空論や屁理屈が罷り通るようになってしまいました。それで大脳皮質は騙せても、九十%以上を占める原始本能のある脳幹部は納得させられません。大脳皮質と脳幹部の両立が出来なければ、本当の健康法にもなりません。これが特徴だ、と私は思っております。
K:
いつも私は、型だけ真似られるようになっても実効が無いので、どっか間違っているんだろうな〜とは思うのですが、呼吸が速過ぎたり動作とのタイミングが合わなくて、しかも力が抜けないから、結局は西洋式の体操をしているような外側の筋肉だけを動かしていて、深層筋まで効果が及ばない。それは、多少の修練をしているつもりでも、日常生活そのものが変わっていないからだった・・・ということは身に染みてきました。
S:
でしたら、少しずつでも修行時間を延ばし、自己観察と生活改善なさってください。今回の話の最初に、少し効果が出てきたという御話を肯定しないと申しあげましたが、それはそれでよろしいのですが、効果に拘るなという意味です。鍛錬は日々続けることが尊いのです。「継続は力なり」と申しますが、良いことを続けることの真意を御存知ないのです。その真意が拈華微笑なのです。それを知れば続けられるのです。私はお弟子さんに「素人の基本は三年、対処療法の基本は三ヶ月」と申しております。本物を育てるには基本で十年掛かります。それほど基本というのは難しいものなのです。素人がちょっと体を動かして健康法などと思うのは間違いです。そういう誤解を招くようになったのはラジオ体操が原因です。あれは競技性の運動なのです。左右同じ体操は健康法にはなりません。人間は必ず体の使い方に偏りがあるからです。その偏った日常の行動からくる不快を取り除いて快へ導くとなれば、十人十色の体操になるのです。個性に無関係な健康法など存在しないのです。人間が体操に合わせるというのは、昔の軍隊で軍服や軍靴はサイズが決まっているので、兵隊のほうが体を支給されたものに合わせろ!と言われたのと変わりありません。本当の健康法は筋力を使わず、競技性を追及せず、個性に合ったものなのです。本来、日本人はそれを知っていたのですが、いつの間にか忘れられてしまったのです。
毎度そうなのですが、マニュアル思考にどっぷり浸かっている人間にとって、肥田式は難しいなと感じるところです。修行とは己自身を知ることだ、と言葉の上では分かっていますが、自分がどのくらい自分に鈍感になってしまっていたか、どれほど運動不足だったか、どんなに過食していたか、修行していると言いながら自分を甘やかしているか認識させられてしまいます。それでも、久し振りに会った知人から、「顔色が良くなったし、いつも起抜けみたいにぼーっとしていた間抜け面が、少ししまってきたみたい」とか言われて、多少の成果は出ているなと思っているのですが。
S:
私がカルチャーセンターの講師でしたら、「そう、それは良かった。修行の成果が出始めましたね。更に一層修練なさってください」とでも申し上げるのですが・・・。実際は、そうではありませんので、そのようには申し上げません。殆どの方が健康法というものを、単に病気をしない、老化を抑える体を作る方法と思っておられます。それはそれで宜しいのですが、私はそういうものを行っているつもりも無ければ、指導しているつもりもありません。
例えば、人間だけが健康法を持ち、また言葉を持ちます。そして語彙を多く持ち、それを巧みに使う人々が優秀とされ、指導者として人の上に立っておりますが、それはとんでもない間違いだと思うのです。人間は所詮、言葉では自分を表現できないのです。ですから賢者は沈黙を選ぶのです。賢者の沈黙は単に言葉を語らないだけかというと、そうではありません。賢者の沈黙はパフォーマンスが出来る沈黙なのです。東洋の英知は、禅や仏の教えでも言葉ではありません。
K:
真理とは何ぞやという問いかけに、師が人差し指一本立てて、それを弟子がへへ〜って納得するような・・・あれですね。
S:
落語の禅問答ではないのですから。御釈迦様が蓮華の蕾の花一輪指し出すと、高弟は忽ち意味を理解してにっこり微笑んだ、という拈華微笑です。言葉は全くありません。その行為の中に真理があるのです。
K:
それは解説をしようとすれば、膨大な言葉を羅列し、それが悟りに関する究極の問答であるとか言っても、御釈迦様が伝えようとした内容と高弟が直感で理解した内容を書き尽くせないわけですよね。
S:
私は拈華微笑的パフォーマンスが出来る身体を作る、そういう運動を作ることも健康法と考えております。そのための鍛錬なのです。それには観察が必要なのです。よく見る、それが出来ない人間は、そこまで到達することはできません。肥田式の鍛錬であちこち痛みが出るなどということは、それ以前に不摂生、運動不足、食べ過ぎなどがあり、しかも自己観察もせずにマニュアル的に形だけの動きをしているからなのです。鍛錬以前の問題です。日常そのものが健康法になっていなければ無理です。それでは、修行や鍛錬は意味が無いのか、となるとそうではありません。そこでもう一つの柱、沈黙が意味を持つような人格形成、生き方、動きなどが出来ることが人間の生きる価値であり、生きてきた価値なのです。それがいつの間にか言葉や理性が優先され、体験も経験も伴わない机上の空論や屁理屈が罷り通るようになってしまいました。それで大脳皮質は騙せても、九十%以上を占める原始本能のある脳幹部は納得させられません。大脳皮質と脳幹部の両立が出来なければ、本当の健康法にもなりません。これが特徴だ、と私は思っております。
K:
いつも私は、型だけ真似られるようになっても実効が無いので、どっか間違っているんだろうな〜とは思うのですが、呼吸が速過ぎたり動作とのタイミングが合わなくて、しかも力が抜けないから、結局は西洋式の体操をしているような外側の筋肉だけを動かしていて、深層筋まで効果が及ばない。それは、多少の修練をしているつもりでも、日常生活そのものが変わっていないからだった・・・ということは身に染みてきました。
S:
でしたら、少しずつでも修行時間を延ばし、自己観察と生活改善なさってください。今回の話の最初に、少し効果が出てきたという御話を肯定しないと申しあげましたが、それはそれでよろしいのですが、効果に拘るなという意味です。鍛錬は日々続けることが尊いのです。「継続は力なり」と申しますが、良いことを続けることの真意を御存知ないのです。その真意が拈華微笑なのです。それを知れば続けられるのです。私はお弟子さんに「素人の基本は三年、対処療法の基本は三ヶ月」と申しております。本物を育てるには基本で十年掛かります。それほど基本というのは難しいものなのです。素人がちょっと体を動かして健康法などと思うのは間違いです。そういう誤解を招くようになったのはラジオ体操が原因です。あれは競技性の運動なのです。左右同じ体操は健康法にはなりません。人間は必ず体の使い方に偏りがあるからです。その偏った日常の行動からくる不快を取り除いて快へ導くとなれば、十人十色の体操になるのです。個性に無関係な健康法など存在しないのです。人間が体操に合わせるというのは、昔の軍隊で軍服や軍靴はサイズが決まっているので、兵隊のほうが体を支給されたものに合わせろ!と言われたのと変わりありません。本当の健康法は筋力を使わず、競技性を追及せず、個性に合ったものなのです。本来、日本人はそれを知っていたのですが、いつの間にか忘れられてしまったのです。
spb-0034 at 19:32|Permalink
│




