鍛錬吟遊詩
2007年03月22日
春の稽古は悩ましや・・・!

薫風に手招きされて佇めば
息 清らかに新たまる。
大きな桜の木の下で
姿勢を正して胸広げ
頭をあげて息吸えば
春の稽古は悩ましや。
薫風に耳打ちされて
我今を 花坂爺に
鍛錬での気力をば
エイ!ヤア!トオ!と
飛び散らす。
花ヒラヒラと舞いながら
風に戯れ遊ぶのです。
春満開の今だから
あなたも手足を踊らせて
春を一緒に 酔いましょう!
2007年3月22日 了雲
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│
2006年12月26日
天窓
低気圧が来ていて
昨夜遅くから激しい雨音が響いていた。
私の書斎兼寝室には天窓があるから
雨音はそのまま響く。
天窓といえば、肥田家の道場にも
私の部屋と同じようなサイズの天窓があった。
もっとも天窓といったって
肥田家の道場の天窓は旧家の空間だから、
今風の建物の三階屋根の位置にあった。
大人一抱えほどもある、とおもえる
磨き込まれた柱の上に、
柱同様の太さの梁が荒々しく加工されたままで、
天上まで遮るモノがない広々とした吹き抜けの
空間にゴロンと横たわっていた。
その梁も、幾年の風雪を感じさせて煤け、
存在感を誇示しているように黒々とあった。
私が始めて道場に入った時に、
まず感じたことが気合応用鍛練で使われる角柱の太さであり、
生きて呼吸しているかのような貫禄がある梁だった。
私がこの梁を拝見した瞬間に、
何故か原木の曲がりをそのままに建材としたのだな!との
インスピレーションを感受した。
そして、古寺の本堂天井に描かれている
龍図の如くに感じたのであった。
龍は道教で力の表徴とされ、
禅でも修行者の守り神とされている。
古の日本は天皇制のこともあって、
道教の天帝思想を嫌ってなどで意図的に道教を遠ざけ、
仏教や儒教を主に輸入してきた。
されど道教はそれらの隙間に紛れて
断片的に日本に入り定着している。
道教の神仙思想と儒教は、
日本人の精神性の柱と梁を形成しているのである。
この道教の主体をなす神仙思想の体現方法こそ
丹田形成なのであった。
肥田家の道場の天窓から差し込む光が梁にあたると、
荒々しく加工された黒光りする梁の木肌が浮き立って、
微かに胎動しているかのように感じた。
その梁の胎動が誘起されると瞬時に、
春充先生在世の時代へと、
道場の雰囲気が変換するのを感じるのであった。
雨音激しい天窓をボーッと眺めていたら、
密かに封印していた、あり日の肥田家道場を想い出していた。
2006年12月26日 了雲
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│
2006年12月25日
気合真伝腰腹同量力鍛練は継承する
春充先生は「私には弟子はいない!」と、
いわれた。
それは春充先生が不出世の天才であり、
大悟徹底の境地に到達された故の
言であられる。
私の弟子で今だ大悟徹底の境地即ち
「脳幹部思考停止」の状態まで
到達した者はおらない。
との見解を示されたに過ぎない。
何でこのようなことを申すのか?
というのならば、春充先生は晩年の
十年を秘書としてお側近くに仕えさせた
故肥田道夫先生他数名の腰腹同量正中心
の鍛練指導者を残されたからである。
通夫先生を始め他の先生方も春充先生の
境地までは到達されておられなかった、
かも知れないが、気合真伝の腰腹同量
正中心の鍛練は現在にまで何ら欠伝する
ことなく継承したのである。
ならば体系はこれからも少しの欠伝も無く、
そっくりと継承させねばならぬ!
それがこの鍛練を真摯に学ぶ者達の義務
でもある、とおもうのは私だけなので
あろうか?
否、否と言おう!
何とならば私の周りには既に次代を
担える寸前にまで、成長が著しい
鍛練人達がちらほらと目に付くように
なってきたからである。
人を育てる楽しみは、自らの感性を
豊かにして、心を柔らかく十全に育む
行為でもある。
そして「弟子を見れば師の実力は分かる」
の喩えのとおり、己の実力が弟子の技量に
反映しているということである。
これは弟子は己の鏡として本当の美醜を
映した姿でもある。
我、今だ学び来て途上を自覚するなり。
されどである・・・この鍛練が裡に秘めた
驚くべき真価を知る者として、継承の
断絶を憂う者なり。
故に今後も、縁に導かれての義務を
果たすものならんや・・・!
2006年12月25日 了雲
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│
2006年12月24日
年末雑感
クリスマスイブの夜の街はイルミネーションで溢れている。
けれど光多ければ闇もまた深く広がるのである。
人工的な光は心の奥底にくすぶる情念を落ち着かせることなく、
人生の喜怒哀楽を浮き立たせて、
後悔と挫折を数えさせる。
ある年齢を超えたときから
人生のベクトルは加速された。
それまでは鈍行の各駅列車だったが、
ある時からは急行列車に改変したような
おもむきを感じる。
そんな日々で淡々の鍛練をすることは
何か物足りなくて、焦ったりした時もあった。
しかし、腰腹同量力鍛練には
裡を観察する心眼が主体となる。
ならば、落ち着いて、じっくりと、
細部までの状態を感じとる、ということが
心眼本来の使い方となる。
私は門下生に鍛練の段階が何処まで出来ているのか?
と聞かれる度に
「腰腹同量力鍛練は、真っ暗闇の中で
コップに一滴の水滴が落ちて溜まるのに似て、
コップから水が溢れいずるまで
コップの水量は分からないのである。」
と言っている。
型が上手いか下手かは見れば分かるし、
他人との比較も可能である。
されど腰腹同量力の鍛練は
型を上手に演じるのが目的に非ず。
腰腹同量力という
生命の母なる地球の熱きマグマパワーと同じ力であり、
人間の本能、根源から産み出される
生命の力を増強するものなり。
その力の質量は自らが心落ち着け、
裡に眼を向けてじっくりと、感じとることでしか
分からないのである。
焦る者は愚か者である。
心眼の何たるか、を知らぬ未熟者である。
諸君!自らの裡を観察する心眼を養成しよう。
そのためにも思考を働かせない、意識を超えた
瞬息での気合鍛練を錬成しよう!
肥田春充という大悟徹底の天才鍛練者が
お示しになられた
「この鍛練は気合によって・・・」を、
そのまま素直に学ぼう!
「聖中心道肥田式強健術」を正しく、正確に、
学ぶとは、創始者がお示しになられた通りを
そのままそっくり学ぶ!と、いうことなのである。
2006年12月24日 了雲
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2006年12月23日
しずく一滴
人間の内面を覗き込んで、
その基底部に横たわる業の深さを理解出来るようになるのは、
中年以後の人生経験を経てきてからだろうとおもいます。
その業の深さを知ると、
人間を形成している原型の体質も、性格も、
とても技や術ごときでは、
肩書きや役割に応じた演技は上手になっても、
じつは何らも、少しも、
内面を変えることが出来ないことを知ることになります。
聖中心道肥田式強健術は、
武道やスポーツ芸事のような術や技を学び、
武道家とかスポーツマンだとかなどの型にはめ、
それに成りきらせる体系ではなく、
業を払い清めてゆく力を持っている
「腰腹同量正中心の鍛練」である、
といえる明確な目的があります。
その目的は春充先生が聖中心部といわれる
人間の中枢である「脳幹部の思考停止」を
行うことで果たされます。
その聖中心部の覚醒には、はなはだ地味なのですが、
ただただ腰腹同量力を増進させ、
その力を脊髄を通して脊髄の根本中枢であり
生命の中枢部でもある「脳幹部」に到達させて
「思考停止」に至らしむるのであるということです。
仏教で説かれるところの仏の境地
「静寂そして三昧境」がこれにあります。
ヨーガーの根本経典「ヨーガスートラ」などでも
用語は異なりますけれど、同じ表現が使われています。
古歌に「分け登る 麓の道は多けれど
同じ高嶺の 月を見しかな」と、
ありますように鍛練の最終は、人間の業の浄化、
その証である静寂、清涼、三昧境となると
いえるのでしょう。
この鍛練は健康法から出発して、心身の強健、
健脳法、護身的体術、霊能力発現、万芸の泉、
悟入へと、とんでもないほどの懐の深い
人間丸ごとの学びなのです。
まぁ、だからこその人生を懸けて悔いがない
鍛練である、ということです。
2006年12月23日 了雲
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2006年12月22日
無駄な型稽古
腰腹同量正中心の鍛練で
気合を指導できない型稽古は、
手足の位置や姿勢、動作などを
重箱の隅を突っつく、というような
と表現するように指導している。
しかも指導の判断基準そのものが、
まったく曖昧のママで行われている。
しかし気合による稽古ならば、そこに
腰腹同量力の基盤たる瞬息的加速が
生まれる。
その加速が自らの意識を超えて
無意識に動ければ、鍛練している
うちに自ずから自然にというように、
正しい収まり所にスポッ、スポッと
収まるのである。
この収まるのである!とは、鍛練者が
意図しなくても身体が自然に、本当に
自然に一番納得がゆく状態に導いて
くれるということなのである。
この気合真伝腰腹同量正中心の鍛練
では、身体が納得のいく状態に収まる
ことを体得といっているのである。
この体得は呼吸しかり、姿勢しかり、
動作しかりであり、型および鍛練の
すべてに渡っているのである。
自らの意識で正しい型だ!と、
自己満足していたって、やがて
自己欺瞞はポロリと剥げて後悔の念と
共に間違いに気付く。
この鍛練に気合があるからこそ
ダイナミックで豪快であり、迫力に
富んでいるのであり、真善美を内包する
のである。
鍛練においては理屈よりも、理性よりも、
感性が主体なのである。
もっとも目的も曖昧、感性も鈍い、
日々の鍛練もたまにやるだけ、では
気合は理解できないのだから体得など
所詮無理な話である。
初心者は呼吸も、姿勢も、動作も
そこそこに正しければよいのである。
不快感が生じなければよいのである。
気合を学び、鍛練しているうちに必ず
身体がフッと、勝手に動いてくれる
のである。教えてくれるのである。
私が入門したての初心者の段階から
気合を指導する訳が、三快と満足を伴う
体得を重視するからであることを
ご理解いただきたいとおもうのである。
2006年12月22日 了雲
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2006年12月21日
天真療法
私は冬季限定生ガキが好きで、
ノロウイルスが流行しているから
といっても制限することなく、生ガキ
の汁を胸元まで滴らせながら蛎殻ごと
両手に持って食らいついています。
感染症の流行はインフルエンザなど
毎年、季節ごとにみられます。
この頃では一時下火になった結核も
再流行して広がりつつありますし
エイズもあります。
幕末にはコレラが流行して、大正には
スペイン風邪で多くの方が亡くなって
います。
明治生まれの創始者は医師で弱者救済の
篤志家の父を持たれ、家系的に虚弱の
体質を受け継いだために富国強兵の
時代に自らを省みて苦悩しながら
成長された方です。
医師の家に生まれたことと虚弱であった
ことで、万事に衛生観念も確立して
おられましたが、けっして受け身の
予防医学はとられませんでした。
大悟徹底の悟人肥田春充先生創始になる
「聖中心道肥田式強健術」には、
別伝として腰腹同量力を活用して病者に
生命活力を注入する治療法である
「強圧微動術」と自己療法の傑作と
いわれた「天真療法」
の二法が伝承されております。
天真療法は「純生理学的自然療法の真髄」と
その合理的療法故に、戦前の医師や研究者
などが絶賛を与えた療法です。
天真療法は先生自らが死をみること数知れず
という自己の体質を振り返り、生理学と
解剖学さらに臨床医学などを総合的に
研究され大悟の叡智により創始されました。
その内容は「安静法」、「断食を含む食養法」、
「排泄法」の三法が一体となった
無薬療法です。
とくに安静はこの療法の中心に
あって、身体が沈まない、歪まない、
水平の床の上に無枕で仰臥、
ただ大の字に
心身を放擲して寝るのです。
マリアに抱かれて眠るイエスの如く、
自らの人生を信じて何らの不安も
煩悶もなくすべてをまかせきって
ただ眠ることを「安心静体」と、
いうのです。
この時の姿勢は呼吸操練の基礎として
修せられる自然体休養姿勢で、
私が所持している春充先生の書
『天寵無限』の心境です。
これは「人はオギャーと生まれて成長
すれば、その裡には人生を全うすべき
機能と能力に満ちていて、人生上の病気の
一切に必要な薬は自らの体内で創り出せる
のである」という信念に基づいて
実践されます!
ですから天真療法は、人は弱く、故に庇い
補いされなければ天寿は全うできない!
という考え違いをお持ちの方には
無理な療法なのです。
禅に「無一物中無尽蔵」とありますが、
安静法の浮き世の一切を放擲して
仰臥する姿は、神の子といわれ
ホモサピエンス万物の霊長としての
絶対不敗の勝者を表しているのです。
自らを信じ切って!後は天に任せる、
ことを正真正銘の積極性というのです。
この鍛練も療法も「天を行くが如く健やか
なるは自彊して休まず」を、そのまま
体現した方法であると
おもうのであります。
私はこの腰腹同量正中心の鍛練及び
天真療法などの、心身丸ごと活性法に
巡り会え、学べたことを心より感謝し、
全身で楽しんでもいるのです。
どうですか皆様も、心身の三快と
透明感と実在感覚を伴う強健という
楽しみ方を人生に・・・!
2006年12月21日 了雲
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2006年12月20日
気合抜け
気合は武道にも、修業にも、人生諸々
にも、応用十分な効果を心身の
隅々にまで良好な影響を及ぼす。
しかし、実際のところの効果的な
気合を体得するのには「気合抜け」
を理解する必要がある。
気合抜けを理論的にいうと、気合
を懸ける、気合を充実させる、などの
時に生じる心身合一の力を鼻腔、
口腔、さらに唇から離れるように、
外部に放出した状態をいうのである。
この気合抜け状態の時には、精神が
落ち着いて澄んで、身体は上虚下実
に成っている。
古伝の気合は念を集中して有声か、
無声か、で発するのであるが、
一瞬に心・気・力を三位一体に
どれだけ目的に集中できるか!
が気合抜けのポイントとなる。
気合抜けを火薬の爆発に例えると
「大量の火薬を広げて点火しても
シュッと燃えても爆発はしない。
ところが少量の火薬でも圧縮すると
爆発するのである。さらに圧縮
すれば圧縮するほど爆発力は強力に
なる。」と同じ原理なのである。
気合抜けは武道の「瞬間居竦みの法」
や気合で人を倒す「気合抜け」などに
も活用されるが、瞬間催眠と同じ原理
と間違って解説されるのが一般である。
腰腹同量力を産み出すダイナモは筋力
に非ず、才能に非ず、体力にもあらざる
にして古伝の秘術として学ばれてきた
気合抜けだけにある。
腰腹同量聖中心の鍛練は、伝承では
秘術であった気合を表に出して基本に据え、
素人の初心者からでも気合抜けまで体得
できるようにと、イ・ロ・ハと
手順よろしく体系化されているのである。
気合学びのイは、呼吸操練法による
呼吸筋群の活性からである。
鍛練でのリキミなどは呼吸筋を活用
できないことで生じてしまう。
とくに呼吸時における腰の使い方を
マスターしないかぎり吸うにしろ、
吐くにしろ気合を生じさせる
エネルギーにまで昇華できない
のである。
そのエネルギーの不足分だけ
リキミが生じるからなのである。
人間の全身の筋肉は呼吸運動に直接的、
間接的に関与しているわけで、全身が
呼吸筋群ともいえるのである。
筋肉は力を入れる機能、動作を司る能力
などを役割とするのである、との認識が
主流なのだが「息をしなければ死」を
理解すれば、先ずは呼吸が優先である
ことが判るのだ。
気合修得の段階は、先ず呼吸は呼吸筋の
作用で行える、を理解しながら胸部、
腹部の呼吸筋群の伸縮を大きく
ユッタリと使えるようにする。
その後、呼吸筋の無理のない緩急を
体得して瞬息的な呼気の使い方を、
というようにすすむ。
気合抜けはその後に、気合応用の
「踏み抜き」、「踏みつけ」の二法で
基礎を学び、気合応用や中心鍛冶法
などの聖中心道鍛練で深めてゆく
のである。
呼吸操練法は床に寝転がって鍛練する
型だから虚弱も骨格の歪みも
気にせずに出来る型である。
腰腹同量力鍛練の型では地味で
目立たないのだが、ここに万芸の泉の
基礎がある、ことを理解すると一見
石ころに似ているが、じつはダイヤの
原石の型であることが判る。
燃えるような紅葉から樹木も葉を
落として休眠の季節に入ったようだが、
じつは人間の眼には見えない黒々とした
大地の中では来年の生き残りと、成長
ための凄まじいばかりの戦いが始まる
のである。
呼吸は生命を創りだしている!
どのように筋力を強大にしようと、
体力を向上しようと、スポーツ能力を
高めようと、息が止まれば死ぬ、のである。
気合とは生命エネルギーを産み出す
呼吸筋群を自由自在に活性化する
生命力増強の方法ともいえるのである。
というわけで、鍛練の根っ子のような
地味だけれど偉大な効果を産み出す
呼吸操練法鍛練を修する
ことをお薦めしたいのである。
2006年12月20日 了雲
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2006年12月19日
気ぜわしい日々には呼吸操練を
本日も出張があり鍛練は、呼吸操練だけで
終了です。
呼吸操練の裡でもっとも重要であり、
効果的なのが腹胸式呼吸法と胸式と
腹式を順式で柔らかく行う
自然呼吸法とを組み合わせての鍛練です。
腹胸式呼吸法には基本として学ぶべき
腹式呼吸法の逆腹式から入り、体得後に
逆式を修するという二つの腹式呼吸の
方法が伝承されています。
その二つの腹胸式呼吸法が出来たから
内臓操練法に入るのですが、ここでは
横隔膜呼吸法(肺底呼吸法)を
マスターします。
ですが焦ることなく、腹胸式呼吸法を
じっくりと学ぶようにします。
これは、逆式まで体得できれば
横隔膜呼吸法が比較的簡単に体得できる
からに他なりません。
腰腹同量力鍛練の呼吸操練法は、床に仰臥
して修しますので、きわめて優れた骨格の
矯正法でもあり、内臓にも何らの負担を
かけることなく心身の機能が同時に
向上します。
ただ呼吸法というのは内的ですから
初心者には何をしているのかがいまいち
理解できなくて、実際の実技では戸惑いが
でて、要領が掴めないだろうとおもいます。
その時には「BABジャパン発行の
基礎修得ビデオ呼吸操練法編」を
御覧頂き学ばれれば、コツは掴めると
おもいます。
呼吸法は肉体の健康度に左右される
だけではなく、現在の感情や精神にも
一体です。
それを纏めてストレスを取り除く
ためにもユックリと呼吸する!
が原則です。
呼吸が落ち着きますと感情も、
思考も、精神もユッタリします。
神経もバランスが整ってきて、
血流が豊かに旺盛になり
免疫も向上します。
腰腹中心の呼吸法を修することは
心身両面に良いこと尽くめです。
私が気ぜわしい時にでも腹胸式
呼吸法を修するのは頭が冴えて、
雑念が著しく減少して心が落ち着く
からです。
つまりインスピレーションが誘起
しやすい頭の状態を創る意味です。
端座や座禅は、その後に修すると
早い段階から心を落ち着かせ、
澄ますことが出来ます。
呼吸がユックリして落ち着いてくると
自動的に雑念も減少する!を、是非
皆様もご経験されたら、とおもいます。
2006年12月19日 了雲
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│
2006年12月18日
禅史上でも希な大悟徹底の鍛練法
このところ仕事で地方泊が立て続けで
鍛練詩も休みがちです。
来週から休みを取ろうという予定が
あり、今週も出たり入ったりで腰を
落ち着けていられない慌ただしさです。
このような気ぜわしい時の私は、
悟道のみに目的を絞った鍛練のみを
しております。
ですから指導の時以外は強健術を
ほとんど行いません。
現在は、朝から出るときには
呼吸操練法のみを修します。
時間に余裕があるときには
室内でも野外でも鍛練出来る
中心鍛冶法とか中心端座法、
などの部分力を捨てた
腰腹同量力増進のみを
目的とした型が主体です。
この鍛練は「万芸の泉」といわれて
きました。
万芸の泉とは、動作の要である腰と
呼吸・思考の要の腹とを同量で鍛練する
方法です。
何故、腰腹だけの鍛練でこと足りるのか?
と申しますと、おおよそ人間のやることの
一切は腰か!腹を!中心にして各部を使う
からなのです。
心身の要の中心さえ練っておけば、後は
必要に応じてすぐにでも練り込めるのです。
ただし、身体の要たる「腰と腹とを同量での
鍛練」は、武道や技や術などでは形成
できません。
呼吸と姿勢と動作を三位一体に気力を込めて
有声・無声での気合での鍛練でなければ形成
できないのです。
かって多くの武道家達が究極の勝者へ変身を
願い座禅しました。彼の宮本武蔵も然りです。
勝者とは人に勝つことで成れるのではなく、
「自らの心に勝つ」ことですから、
そこには心法が必要になるのです。
禅は心法の一形態でこの鍛練の腰腹同量力
からすると兄弟のような方法です。
しかし遺憾ながら禅は鎌倉期に日本に輸入
されて室町で定着しながら、根本的な
修行法としては腐敗したといわれてき
ています。
しかし腰腹同量鍛練は開祖春充先生
41才時で禅史上でも希な想像を絶する
大悟徹底に至られました。この時は大正
12年6月18日深夜の鍛練に於いてです。
開祖の大悟徹底時から僅か100年の歳月
しか経ておりません。春充先生という偉人は
熱烈な国士であらせられましたので、自らの
悟道の内容も鍛練法法の一切をすべて
公開されておられるのです。
しかもその内容は禅語などの複雑怪奇な
言い回しとか形容ではなく、生理学、解剖学
力学、幾何学などを駆使して語られています
ので後世の我々にもじつに判りやすいのです。
春充先生自身が幼少時から死を見ること数度
というほどの虚弱者で、小学校卒業後は中学に
通えなくて18才まで引き籠もっていたという
状況でした。
18才の時に死に物狂いの発憤をして
腹力重視の気合を主体に強健術を組み立て
心身を大改造して鉄人とか真男子と呼ばれる
体格に改造され、41才時に大悟徹底をされ
るに至るのです。
春充先生は大悟徹底後に自らの悟り時に於ける
身体の状態を細部まで検討したところ期せずして
従来の腹力中心の鍛練をしていたのではなく
「腰と腹とに同量の力が籠もっている状態で
悟入した」ことが判りました。
現在の腰腹同量正中心の鍛練は、
春充先生悟入後に組み立てられた鍛練法なのです。
春充先生は生涯のほとんどを伊豆山中で仙人生活
のような修業を一貫されておられ、ご昇天
あそばされる直前まで鍛練法を研究されて
おられました。
鍛練方法は若々しく!どこにも無駄がない!
筋力や体力も要らないし無理もない!
まったくシンプルなこの鍛練が出来ないのは
既存の価値観、鍛練法という色眼鏡で
見るからです。
そうではなく「新しい酒は新しい革袋へ!」
の喩え通りにすると自ずとすべて、いつの
間にか理解できるのです。
ということで、細部に拘らず、
日々の鍛練を淡々と継続させて
堂々と行きましょうよ!
2006年12月18日 了雲
spb-0034 at 20:54|Permalink
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