気合鍛錬覚書
2006年05月20日
其の壱
気合鍛練覚書 2005
これは、『聖中心道肥田式強健術』の真伝である『気合鍛練』による型を継承した佐々木了雲指導による鍛練会での講義録です。
『聖中心道肥田式強健術』の創始者である肥田春充先生は「武道の精華であるところの『気合』でもって鍛練するのである」と、その他に類をみない特長を示唆されました。
そして先生は、「型は枝葉であって、気合こそ鍛練の命である」と、強調されておられます。
ですから、現在広く行われている「気合なき型中心」のサイレントの鍛練法では、どれほどやり込んでも、何らの効果も出せないのです。何とならば、この鍛練の別名は『腰腹同量正中心の鍛練法』と言うのですが、気合が欠落した型では腰腹同量は形成できないのです。
また外形から見ての特長として、「腰椎4番と5番をグイッと反折させる」ところにありますが、この腰の反折も気合によりスパッ!と舜息的に行われることにより、これはまた喩えようのない爽快感を伴うのです。
さて『腰腹同量正中心の鍛練法』であるところの気合による肥田式強健術の型は、「筋肉の発達」、「内臓の壮健」、「皮膚の強靱」、「気力の充実」、「姿勢の調和」、「体格の均整」、「動作の敏活」、「精神の平静」の八大要件獲得を目的としています。
さらに鍛練を進めると『聖中心道』に到るのであるが、この目的は禅で言うところの「悟道」という、理外の理または無用の用であるところを練り込むわけであり、その結果として味わい尽くせない妙境に遊ぶのです。
この鍛練の他に例をみないところの特長である「気合発声」では、三声の天・人・地「ぇーい!(中母音)」「ゃーあ!(高母音)」「とぉーお!(低母音)」という母音を強調して、発声の最後の息を強く発声することで力を引き出し、その力を裡に込めていくのです。
気合発声にともなって壁が共鳴し、ビリビリ!と揺れて、振動で壁面が剥がれ落ちるぐらいに発声してこその腰腹同量正中心の鍛練です。このために、初心の時には、特に強く意識して発声しようとおもわないと出せるものではありません。
壁がビリビリと共鳴して振動するぐらいの気合発声では、足から跳ね上がってくる力で腰を整え、反折しなければ、その力は生まれません。
この腰の反折を外形から観ると、これを例えて言うのならば棚ケツ!という、物がケツの上に置けるくらい反折させます。
この注意の他に重要な要諦として、鍛練中は眼を刮目して瞬きを極力しないようにします。このように刮目して瞬きをしないようにすると、脳の働きが良くなります。
仁王の門を潜らないと観音様には行き着けないのですよ。それを裏口から入って、如何にも「努力して到達しました!」という顔をしてみても、気合を出せば「馬脚」を表します。
私は、創始者である肥田春充先生の後継者で二代目を継承された肥田道夫先生より気合による真伝を学び、その証としてただ一人免許の看板を頂きました。
気合による真伝を学ぶことで、『腰腹同量正中心の鍛練法は、日本が世界に誇る人類の文化遺産』であると感嘆しています。是非、一人でも多くの方々に知っていただくために、機会があればその魅力と効能を演武者として、語り部として共に学びたいとおもっております。
これは、『聖中心道肥田式強健術』の真伝である『気合鍛練』による型を継承した佐々木了雲指導による鍛練会での講義録です。
『聖中心道肥田式強健術』の創始者である肥田春充先生は「武道の精華であるところの『気合』でもって鍛練するのである」と、その他に類をみない特長を示唆されました。
そして先生は、「型は枝葉であって、気合こそ鍛練の命である」と、強調されておられます。
ですから、現在広く行われている「気合なき型中心」のサイレントの鍛練法では、どれほどやり込んでも、何らの効果も出せないのです。何とならば、この鍛練の別名は『腰腹同量正中心の鍛練法』と言うのですが、気合が欠落した型では腰腹同量は形成できないのです。
また外形から見ての特長として、「腰椎4番と5番をグイッと反折させる」ところにありますが、この腰の反折も気合によりスパッ!と舜息的に行われることにより、これはまた喩えようのない爽快感を伴うのです。
さて『腰腹同量正中心の鍛練法』であるところの気合による肥田式強健術の型は、「筋肉の発達」、「内臓の壮健」、「皮膚の強靱」、「気力の充実」、「姿勢の調和」、「体格の均整」、「動作の敏活」、「精神の平静」の八大要件獲得を目的としています。
さらに鍛練を進めると『聖中心道』に到るのであるが、この目的は禅で言うところの「悟道」という、理外の理または無用の用であるところを練り込むわけであり、その結果として味わい尽くせない妙境に遊ぶのです。
この鍛練の他に例をみないところの特長である「気合発声」では、三声の天・人・地「ぇーい!(中母音)」「ゃーあ!(高母音)」「とぉーお!(低母音)」という母音を強調して、発声の最後の息を強く発声することで力を引き出し、その力を裡に込めていくのです。
気合発声にともなって壁が共鳴し、ビリビリ!と揺れて、振動で壁面が剥がれ落ちるぐらいに発声してこその腰腹同量正中心の鍛練です。このために、初心の時には、特に強く意識して発声しようとおもわないと出せるものではありません。
壁がビリビリと共鳴して振動するぐらいの気合発声では、足から跳ね上がってくる力で腰を整え、反折しなければ、その力は生まれません。
この腰の反折を外形から観ると、これを例えて言うのならば棚ケツ!という、物がケツの上に置けるくらい反折させます。
この注意の他に重要な要諦として、鍛練中は眼を刮目して瞬きを極力しないようにします。このように刮目して瞬きをしないようにすると、脳の働きが良くなります。
仁王の門を潜らないと観音様には行き着けないのですよ。それを裏口から入って、如何にも「努力して到達しました!」という顔をしてみても、気合を出せば「馬脚」を表します。
私は、創始者である肥田春充先生の後継者で二代目を継承された肥田道夫先生より気合による真伝を学び、その証としてただ一人免許の看板を頂きました。
気合による真伝を学ぶことで、『腰腹同量正中心の鍛練法は、日本が世界に誇る人類の文化遺産』であると感嘆しています。是非、一人でも多くの方々に知っていただくために、機会があればその魅力と効能を演武者として、語り部として共に学びたいとおもっております。
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其の弐
強健術鍛練の特長は「加速」ということです。
この「加速的に型を行う!」ということは、初期から最晩年まで、一貫して変わらずにきています。
私が何故「気合こそ真伝である」と言うのか?
二代目を継承された肥田道夫先生が、どうして私一人にのみ「免許の看板書いてくださったのか?」
その答えが「型は加速度的に行う」ということなのです。
例えばボクシングは拳だけで戦うスポーツですが、パンチを繰り出すときに「シュッ!シュッ!」というように息きんでパンチを繰り出します。
重量挙げもユックリではなく、姿勢が決まればいっきに挙げますが、その際は「イヤ!」とか「ウム!」などのイキミ声を発します。
戦場を往来して来た古武道で、気合を修練しない学びは何一つありません!
何故、極めの瞬間にイキミ声などの発声をするのでしょうか?
それは結局、「加速」というパワーを本来の力にプラスアルファーさせたいからです。
現在の運動科学では、この極めの瞬間に発声することで「約13パーセントのパワーを加味することが出来る」ということが言われ出してきて、ここ一番というときに積極的に発声することを奨めています。
この発声することでプラスアルファーのパワーを得ることを、「シャウトの法則」というのだそうです。
このシャウトの法則以上のパワーを加味することが出来るのが、丹田からの『気合』です!
丹田からの気合を『真の気合』と申しますが、真の気合で発声するためには、「上半身が柔軟で下半身が盤石」であることが必須条件です。
このような「上虚下実」の姿勢において、上半身が反動を起こし、その反動の分だけ付加価値のパワーが生じるのです。
このことは後にも触れますので覚えておいて下さい。
「気合」が生じると驚くべき「加速」が生じます。
この加速を生じさせる鍛練だからこそ、「八大要件」獲得や武禅といわれる「大悟徹底」が可能なのです。
ですから、「晩年の型は気合が無くて良い!」などということは、正しく学んでいない証拠でもあるのです。シッカリ周囲を震撼させる加速的、舜息的気合で練り込みなさい!・・・。
皆さんの気合発声を聞いておりますと、「エイ!」、「ヤア!」、「トオ!」と、発声の始めから最後まで同じ強さで発声しております。ですが、それは腰腹同量を練り込む気合発声ではありません。まったく異なる一般的な気合という言葉だけの大声です。
「ェーイ!」、「ャーア!」、「トォーオ!」と、最後の残りの息で発声してこそ気合になります。
古諺でも「必死の気!」と申しますでしょう。
発声の語尾の方が強く押し出されるのです。出しきった残りの一息を押し出して発声するのですよ。
それが上半身の反動を誘起して共鳴・振動を倍加します。その振動が体内深くを共振連動させて顕在・潜在能力を確実に得ていくのです。それが腰腹同量の気合発声なのですよ。ここに大声やかけ声との違いがあるのです。
声よりも息遣いが大切なのですね。
私の気合に耳を澄ませて感じとってください!
身体全身を気合に共鳴させて体得してください。何時までもあると思うな親と金・・・と、師匠ですよ!
それと、気合発声の体得に小細工は通用しません。発声することより息の使い方が重要なのです。
声を息で押し出す!ようにします。
弾は声で息が火薬です。銃砲はHARAです。銃身は上半身で声帯です。引き金は、姿勢と呼吸と動作の三位一体で引き絞ります。それを小細工にならないように工夫しながら、強く意識しながら、もう一度チャレンジです。さらにチャレンジです。ェエーイ!ャアーア!トォオーオ!と息を吐き抜くようにもう一声です。
声を出すのではないのです。声は息で押し出されるようにしないと駄目です。声を出して怒鳴っている間は「声が枯れて」ノドがやられます。
そうではなく、「息で声を押し出す」ように息遣いを学んでください!
これならばいくら大声を出そうと怒鳴ろうと、「声疲れ」で声が出なくなるとかポリープができるなどの、声帯の荒れがまったく全然生じません。
気合は「上虚下実」の姿勢で形成されるHARAの力というのですけれど、本当は全身的な総合力です。
特に腰の弾力と呼吸筋群の柔軟、かつコントロールが必須です。
この基盤が足から跳ね上がってくる力を活用しての腰造り、これがこの鍛練の姿勢の特長であるところの「腰椎と仙骨接合点の反折」です。
この鍛練では足と腰は一体なんだから、足先の向きや歩幅、重心の位置などがシッカリとしないと腰が死にますよ。
足の作用によって腰に力を起こし、それによって全てをコントロール出来ないと「上虚下実」にはなりません。
姿勢は「賢脳」の元です。文豪や科学者が研究や論に息詰まって、とぼとぼと散歩をしていたら突然「閃いた!」と、いうことを聞いたことがありますでしょう。この鍛練は足の力学的配分ということを研究し尽くして現在のような独特な足捌きをするのですから、丁寧に、確実に体得なさってください。
それと、姿勢の要が「足腰」なら、全身的コントロールは「頭」です。
この頭は約7キログラムぐらいあって、ボーリングの球の重さと同じです。
ですから、頭がいい加減な位置にあると重心が狂います! いくら丁寧に型を学んでも、頭の位置がいい加減で、正しい位置にないというだけで重心が狂い、動作に余計な動きが入ってきます。
初心者の内は、特に気を付けて頭を腰の上に位置するようにします。
手足の動きは脊髄上部の延髄の前根・後根で行うとされているのですけれど、そのためにも頸の位置、頭の位置が重要でしょう!
脳幹部への血流は頸椎下部から枝分かれして後頸動脈が司っているのですから、このことを考えないといけませんね。
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其の参
次に、最後に言うのが悟性。
悟りの性。りっしんべんに「われ」。五って書いて口。
悟性っていうのはこだわらない。思い込まない。絶対は無いんです。
知能指数が100あって20、30しか使えない人たちは、この悟性が無い。殆ど思い込んじゃうんです。決め付けるからです。それから、人と自分を比べて差別する。
知能指数のテストで何やったか覚えていますか。そんなに覚えてないと思うけど、集中してやったはず。考え事をしていたら集中なんか出来ないはずです。誰だって分かっている事です、集中という事がどれほど大切な事なのか。
考えてご覧なさい。集中出来ない原因はなんですか? 思い込むからです。こだわるからです。まっさらになって御覧なさい。そらぁすごい集中力ですよ。
それが知能指数、自分の知恵というものを100%働かせるんです。だからそこに勘働き(かんばたらき)ってのがある。
勘働きというのは、ちょっとした工夫なんだよね。自分の生き方、思い考えている事、やっている事に対する工夫をいっつもするんです。ちょっとした工夫です。
鍛錬にも言えます。春道先生のこんな分厚い本「聖中心道肥田式強健術」がある。これは、もうバイブル。色んな事が書いてあります。書いてあったって、どう解釈するかという問題がある。10人なら10人のそれぞれの解釈がある。私はそれをずーっつとそれをバイブルとしてやってきたんだけれども、52歳の時に捨てちゃったんです。 もう、春道先生の本は読まないです。
読まないとどうなるか。試行錯誤、紆余曲折、支離滅裂、迷う、良いじゃないですか、迷ってどこが悪いんですか? 支離滅裂の何が悪いんですか?
試行錯誤できるという事は思い込みがない、という事ですよ。至らない人間が、駄目な人間が「これはこうだ」と言ったことが一番危ない。自分なんか出来てないんだから。出来てないんだから迷ってあたりまえ。
迷うと言う事が伸びる素質なんです。
これを先生とか呼ばれるようになると、「これはこうだ」とか「ああだ」とか言うようになる。その段階でそういう人間はダメになるに相等しい。
先生なんて呼ばれると僕なんか怖くてしょうがない。人に教えるのも同じ。あなた方に教えるのもいっつも気をつけている。あなた方に思い込みを植え付けないよう気をつけている。つい、自分の思い込みを、経験を教えてしまう。
それって危ないんだよね。自分の経験だって間違えているという前提に立たないといけないのです。だから一つの参考として私は見せたり喋ったりしている。
そして、毎回同じ事は絶対言わない。常に違う角度違う角度で言っている。それによって相手が考えるように。自分で考える工夫をするんです。
同じことばかり言うと固定観念になっちゃう。いつの間にか刷り込みが始まっちゃう。ヒットラーのあれじゃないけれども、同じ事ばかり言っているとそれが正しいと思い込んじゃう。
相手に対して失礼ですよ。みんな前途洋洋としたものがあるのに。こんな習い事で一つの刷り込みをされてしまってその人生の幅を狭めてしまう。こんな事あって良い事ない。
みんなは前途洋洋、先は末広がりに広がっている!私の人生もそう。いつも気力に溢れて、八大要件を思い出して御覧なさい。
筋力の発達、内臓の操練、気力の充実…八つの要件、これらをもって人生を生きて何に困るんですかアナタ。何か困る事ある?
何も困らない、世界中のどこへいったって。そんな人間、誰もほっときゃしないですよ。皆欠陥だらけだし。この学びの中でですよ、アナタ方も私も、本当に今生、聖中心道肥田式強健術を持ってどこにでも行ってご覧。
皆、右脳だ左脳だ等と脳の表面ばかりを学習する事ばかりをやっている。大脳皮質を、それを如何に活動させるか、と言う事を勉強している。こんな事ばかりをやるからずるくなる。ずるい人間は本当の幸せなんか絶対得られませんから。
ずるさを捨てる、大脳皮質じゃない、もっと脳の中枢を鍛え上げるんです。
それが我々の肥田式。脳幹聖中心。こんな事言っているの我々しかいないですから。我々の聖中心道肥田式強健術を創始された肥田春充先生しか言ってないんです。それを皆やっているんです。
出来る出来ないは分からない。やればやっただけ、ほんの少しの効果でも良いです。その内皆も「ああ幸せだ、何と気持ち良いんだろう」と感じるようになる。要は早く身に付けていただきたい。
それからね、もうひとつ私は皆さんに言いたい事があるんですけれども。それはね、人には一流になれる人と二流で終わる人と三流を全然抜けられない人の3タイプいるんです。これにはどうしようも無い部分があるんですけれども、誰だって本当は一流になれるんです。誰だって一流になれるのに二流で終わる人、三流で終わる人がいる。何でか?という事ですよ。
それはね、私はこの姿勢のままでワープロを打っている、この姿勢のままで絵を描いているんです。この姿勢のままで食事するんです。この姿勢のままで喋るんです。寝ていてもこの姿勢です。つまり鍛錬で手にした呼吸や姿勢や動作っていうものは、日常生活となんら変わらない。
私の中で日常生活と鍛錬は一体なんです。寝ていても変わらない。だから一流です。
私が道を歩くときに何をやっているかというと、腰をグッと巻き込んで歯に自然と力が入るんです。何故腰の力を使うかと言うと、腰の力を使わないと上腹、下腹両方に力が入っちゃう。これだと苦しくって腹に力が入れられないんです。
ほら、でも腰で腹に力を入れると呼吸だって全然関係なく出来るんです。二流の人っていうのは型鍛錬というのは熱心にして1日2時間3時間やって出来るようになる。でも日常生活にそれが使えないんです。日常生活と鍛錬というものが分離しているんです。
もっとダメな人は鍛錬そのもの自体が出来ない。それはもう三流で終わりですよね。今生縁が無い。もう一度生まれ変わっても、その頃に肥田式強健術がどうなっているか私は見たくないけれどさ。
分かります?
ちょっと話が長くなっちゃったけれども。覚えておいて頂きたいのは、一人一人の中に眠っているパワーというのを全開しなさいよ、その為にやっている。
勿体無いでしょう、何をやったって。皆平等。但し、自分の人生を信じきれない、人と自分を比べている、そんな馬鹿な事をしている間は自分の運を駄目にしています。
運が良い人と言うのは、自分を信じる事が出来る人なの。それは絶対的に運が良いです。
それと、人と自分を比べない事。比べると差別するから。比べると人を呪ったり、人の幸せを足引っ張ったりする。
比べない人間はそんな事しないです。皆が幸せになるように、比べなくなれば自然にそう思うようになる。
分かった?
悟りの性。りっしんべんに「われ」。五って書いて口。
悟性っていうのはこだわらない。思い込まない。絶対は無いんです。
知能指数が100あって20、30しか使えない人たちは、この悟性が無い。殆ど思い込んじゃうんです。決め付けるからです。それから、人と自分を比べて差別する。
知能指数のテストで何やったか覚えていますか。そんなに覚えてないと思うけど、集中してやったはず。考え事をしていたら集中なんか出来ないはずです。誰だって分かっている事です、集中という事がどれほど大切な事なのか。
考えてご覧なさい。集中出来ない原因はなんですか? 思い込むからです。こだわるからです。まっさらになって御覧なさい。そらぁすごい集中力ですよ。
それが知能指数、自分の知恵というものを100%働かせるんです。だからそこに勘働き(かんばたらき)ってのがある。
勘働きというのは、ちょっとした工夫なんだよね。自分の生き方、思い考えている事、やっている事に対する工夫をいっつもするんです。ちょっとした工夫です。
鍛錬にも言えます。春道先生のこんな分厚い本「聖中心道肥田式強健術」がある。これは、もうバイブル。色んな事が書いてあります。書いてあったって、どう解釈するかという問題がある。10人なら10人のそれぞれの解釈がある。私はそれをずーっつとそれをバイブルとしてやってきたんだけれども、52歳の時に捨てちゃったんです。 もう、春道先生の本は読まないです。
読まないとどうなるか。試行錯誤、紆余曲折、支離滅裂、迷う、良いじゃないですか、迷ってどこが悪いんですか? 支離滅裂の何が悪いんですか?
試行錯誤できるという事は思い込みがない、という事ですよ。至らない人間が、駄目な人間が「これはこうだ」と言ったことが一番危ない。自分なんか出来てないんだから。出来てないんだから迷ってあたりまえ。
迷うと言う事が伸びる素質なんです。
これを先生とか呼ばれるようになると、「これはこうだ」とか「ああだ」とか言うようになる。その段階でそういう人間はダメになるに相等しい。
先生なんて呼ばれると僕なんか怖くてしょうがない。人に教えるのも同じ。あなた方に教えるのもいっつも気をつけている。あなた方に思い込みを植え付けないよう気をつけている。つい、自分の思い込みを、経験を教えてしまう。
それって危ないんだよね。自分の経験だって間違えているという前提に立たないといけないのです。だから一つの参考として私は見せたり喋ったりしている。
そして、毎回同じ事は絶対言わない。常に違う角度違う角度で言っている。それによって相手が考えるように。自分で考える工夫をするんです。
同じことばかり言うと固定観念になっちゃう。いつの間にか刷り込みが始まっちゃう。ヒットラーのあれじゃないけれども、同じ事ばかり言っているとそれが正しいと思い込んじゃう。
相手に対して失礼ですよ。みんな前途洋洋としたものがあるのに。こんな習い事で一つの刷り込みをされてしまってその人生の幅を狭めてしまう。こんな事あって良い事ない。
みんなは前途洋洋、先は末広がりに広がっている!私の人生もそう。いつも気力に溢れて、八大要件を思い出して御覧なさい。
筋力の発達、内臓の操練、気力の充実…八つの要件、これらをもって人生を生きて何に困るんですかアナタ。何か困る事ある?
何も困らない、世界中のどこへいったって。そんな人間、誰もほっときゃしないですよ。皆欠陥だらけだし。この学びの中でですよ、アナタ方も私も、本当に今生、聖中心道肥田式強健術を持ってどこにでも行ってご覧。
皆、右脳だ左脳だ等と脳の表面ばかりを学習する事ばかりをやっている。大脳皮質を、それを如何に活動させるか、と言う事を勉強している。こんな事ばかりをやるからずるくなる。ずるい人間は本当の幸せなんか絶対得られませんから。
ずるさを捨てる、大脳皮質じゃない、もっと脳の中枢を鍛え上げるんです。
それが我々の肥田式。脳幹聖中心。こんな事言っているの我々しかいないですから。我々の聖中心道肥田式強健術を創始された肥田春充先生しか言ってないんです。それを皆やっているんです。
出来る出来ないは分からない。やればやっただけ、ほんの少しの効果でも良いです。その内皆も「ああ幸せだ、何と気持ち良いんだろう」と感じるようになる。要は早く身に付けていただきたい。
それからね、もうひとつ私は皆さんに言いたい事があるんですけれども。それはね、人には一流になれる人と二流で終わる人と三流を全然抜けられない人の3タイプいるんです。これにはどうしようも無い部分があるんですけれども、誰だって本当は一流になれるんです。誰だって一流になれるのに二流で終わる人、三流で終わる人がいる。何でか?という事ですよ。
それはね、私はこの姿勢のままでワープロを打っている、この姿勢のままで絵を描いているんです。この姿勢のままで食事するんです。この姿勢のままで喋るんです。寝ていてもこの姿勢です。つまり鍛錬で手にした呼吸や姿勢や動作っていうものは、日常生活となんら変わらない。
私の中で日常生活と鍛錬は一体なんです。寝ていても変わらない。だから一流です。
私が道を歩くときに何をやっているかというと、腰をグッと巻き込んで歯に自然と力が入るんです。何故腰の力を使うかと言うと、腰の力を使わないと上腹、下腹両方に力が入っちゃう。これだと苦しくって腹に力が入れられないんです。
ほら、でも腰で腹に力を入れると呼吸だって全然関係なく出来るんです。二流の人っていうのは型鍛錬というのは熱心にして1日2時間3時間やって出来るようになる。でも日常生活にそれが使えないんです。日常生活と鍛錬というものが分離しているんです。
もっとダメな人は鍛錬そのもの自体が出来ない。それはもう三流で終わりですよね。今生縁が無い。もう一度生まれ変わっても、その頃に肥田式強健術がどうなっているか私は見たくないけれどさ。
分かります?
ちょっと話が長くなっちゃったけれども。覚えておいて頂きたいのは、一人一人の中に眠っているパワーというのを全開しなさいよ、その為にやっている。
勿体無いでしょう、何をやったって。皆平等。但し、自分の人生を信じきれない、人と自分を比べている、そんな馬鹿な事をしている間は自分の運を駄目にしています。
運が良い人と言うのは、自分を信じる事が出来る人なの。それは絶対的に運が良いです。
それと、人と自分を比べない事。比べると差別するから。比べると人を呪ったり、人の幸せを足引っ張ったりする。
比べない人間はそんな事しないです。皆が幸せになるように、比べなくなれば自然にそう思うようになる。
分かった?
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其の四
心身を鍛え上げる鍛練は、今風の「リラックス」とか「脱力」でやったんでは効果が出ません。心(呼吸)・気(姿勢)・力(動作で生じる作用と反作用)を気合で舜息的に統一できないとだめなのです。
そのためには、自らが息苦しくなるまで集中し、さらに追い込んで心・気・力を張り抜いていかなければ心身に革命を起こすことなどできません。
呼吸が乱れるまで連続してやりなさい!
そして呼吸が乱れたら、息を抜いてしばし休息します。
これが『気合による強健術鍛練』というのです。
鍛練の間はこのサイクルを繰り返すのです。心身が出来てくると、張り抜いていられる時間の方が、だんだん長くなります。それが効果です。
解剖では、人体は約600余の筋肉と200余の骨格で構成されているそうです。
そして身体が動くのは、筋肉が骨を引っ張って動くことができるのですけれど、動くに際する筋肉が骨を引っ張る行為は、全身を密に階層的にまとわりつく形態でネットワークしている神経系がやっています。
その神経の全ては脳がコントロールしていて、筋肉が骨を引っ張って動くという行為の一切は、「脳内の一部の領域でシュミレーションできた、その結果」なのです。
運動の領域は「小脳をおもに使っている」とされていますが、外側から目にすることが出来る筋肉群「アウターマッスル」と共に、最深部の「インナーマッスル」を強い呼吸と加速度的な動きで強調して使い、それに発声を伴う気合で腹腔・胸腔・頭腔を共鳴させる心身鍛練は、単に小脳だけの領域主体ではなく、全脳的な領域を使用しているのではと思います。
気合術の先生は、かつて「気合鍛練は賢脳法の極致である!」と言われたことがあります。当時はいまいちピーンときていなかったですけれど、鍛練が進んで様々なことが体得できてくると、「なるほど賢脳法とはよくぞ言われたものだなぁ〜!」と、ただただ慧眼に感嘆するほかありません。
この「脳と運動の関係」、さらに「気合による鍛練の奥深さ」を何となくでもよろしいですから理解しておきますと、後々に鍛練で少しの効果が自覚できたときから、積極的に様々な事にチャレンジしたい!という、強い欲求が裡の深くから湧いてきます。
初心の方は理論は深く入る必要はありません。簡単に知っておけばよろしいんです。
筋肉や骨格の動き、身体の外も内も、全ての統御・調整は脳がやっているのだ、ということをです。手足が勝手に動くんじゃなくて、言葉が勝手に出てくるんじゃなくて、全ては頭で組み立てて結果として出される。
口の形も声帯の動きも声の強弱もです。気合による運動法は賢脳法なのですよ。
私は『月刊活生』という機関誌を書いています。皆様のお手元に届いておりますでしょう。この中の文章は左脳がやります。絵も描いていて。これは右脳がやります。
昔は絵どころか、文章も書けなかった。驚くほど下手でした。今の小説などの文章を読まれている方は「嘘でしょう!」といってくださいますけれど、嘘のように下手でした。
昔は編集者が大幅にというか、ほとんど全面的に手直しをして原稿になります。またゴーストライターが口述筆記を纏め直して本を出しました。それほど駄目だったんです。
それが48才ぐらいから徐々に変わりだしてきて、文も絵もそれなりに自信をもって取り組めるようになったんです。
ですから、気合による心身鍛練は賢脳法である!人に革命を起こす!と、自らの体験で明言できますよ。
絵もね学んだことがまったくありませんでしたけれど、ある時から描けるようになりました。ただし、素人の絵ですから上手くなくてよいのです。上手下手より味が大切です!味がね、なんとも言えない絵の雰囲気を醸し出してくれるところが大切だ、とおもっています。
絵というモノはそれでよろしいと思うのです。このような味な絵を、昔は「禅画」といったんです。
さらに脳の中枢は「脳幹部」になります。
気合鍛練は「脳幹部の思考停止」へと導きます。
このようにして頭の全て、脳の全てを育んで活性して、養うようにする。これは普段から心掛けないと出来ないことです。そしてまたこのことは生涯のテーマでもあります。
人や、モノや、食事の時などに「何が好き!」、「何が嫌い!」なんて言っているようじゃ頭は良くならない。賢脳を心懸けられるなら、人にもモノにも好き嫌いをなくしましょうね!
知能指数という脳力の測定法があります。日本人の平均は80から110ぐらいであると言われています。ですが、我々日本人がどれだけ日常の生活、仕事の中で知能を使って生きているか?を、調べた結果が出ています。
これがナンとね、20しか使っていない。それで皆さん滞りなく生活している。
この現実を観て、80の知能指数の方が80そっくり使ったら相当なものだと思いませんか?
この鍛練の創始者であらせられる肥田春充先生は、熱烈な国士でもあらせられました。
日米戦争を阻止するために憲兵や特高(思想警察)に狙われながら奔走しておりました。
大正11年の「大悟徹底」により予知能力という潜在能力を獲得された先生は、日本の行く末がビジュアルで判ったと伝えられております。何とかそれを変えて国民を塗炭の苦しみから救済したいと努力されておられた。
この時に先生が詠まれた「あぁ、五十人の志士だにあらば 日の本は あぁ、五十人の志士だにあらば」という短歌が残されております。
日本人の裡のたった50人でよい! その50人が肚を据えて、持って生まれた本来の知能指数を全開して活動されたら、世の中は変わるのだ!という心境であらせられたのだ!と思うのです。
科学が発達したとされている現在に到るまで、環境悪化はさらに年々酷くなっています。
さらに眼を世界に転じると、眼にするのは戦争に災害です。
どうでしょう。一人一人が本来の知能指数を全開して生きるための学習をしてみる。その努力をすることは、決して些末な事ではないと思うのです。
一人の結果を観て、自分もやってみよう!という方が表れるとおもうのです。
始めは小さなつむじ風ですが、だんだんと情熱というエネルギーが加わり、葉を枝を揺らし、だんだんとさらに木々を根こそぎ引っこ抜く竜巻へと成長すると思うのです。
気合鍛練は宗教や武道の極意にして、万芸の泉と伝承されてきました。その効果の一端が知能指数に代表される「賢脳法」としての能力向上にあるからです。
記憶の多さが優秀という、過去の実例を引いて理屈をこねくり回す教育から、人本来の裡なる能力を全開する「健脳教育」を大切にしなければいけません。
現在だれも目を向けてくれないので、ここにおられる方一人一人が心して自らを教育してゆく、先ずは本来の知能指数を全開にして使う、ことを目標にしましょう。
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其の伍
さて、ここにも沢山の若者が来られています。その若者に学ぶ目的は?と水を向けると「先生、強くなりたいんです!」と叫ぶように口にする方が実に多いのです。
私は東京の他に大阪と名古屋でも指導させていただいております。ここでも「強くなりたい」という言葉を聞いてきました。
「なんの為に強健術やるの?」と聞くと「強くなりたい」と答える。
「ふーん、じゃあ君が言っている強さとはどういう強さなの?強い、という意味を私に理解できるように言ってごらん!」と言うと、答えられません。
つじつまの合わない訳の分かんない事を言う。
本当に強いということを、「絶対的な強さ」という言い回し方があります。
私は48歳の時に絶対的な強さ、というパワーの一端を手に入れました。
ところでこの「絶対的な強さ」ってどんな強さだとおもいますか?
絶対的な強さです。これはね、人と自分を比べないという事です。テンジョウテンゲユイガドクゾンということです。
私は私、私が強いと思ったら最高に強いんです。
誰と比べて強いかという事は一切関係無い。人は我が眼中に無いんです。
一見すると傲岸に聞こえますけれど、その真意を知ると「そうだ!」とおもうのです。
人と、あるいはモノと、比べている間はどれほどの能力や力があろうと、筋肉があろうと、金があろうと、腕力があったって弱いんです。
「弱さは外にあるのではなく裡にある!」ということを知らなければ何も変わりません。
外ではない、裡を観る目を養い育ててゆく。やがて「時とともに花が咲き、実が成ります。」それにより学ぶ目的の「絶対的な強さ」を体得したのです。
我は我。人は人。皆様がそれぞれに特徴があり、皆様それぞれに良いところがある。それぞれみんな欠点があって、みんな魅力があって、イヤな部分もある。それで良いじゃないですか。
そういう人の長短をしっかりと腹の中に納めた人間が本当に強いんです。
私は48才の時に初めてそのような心境になったんです。
それから比べないですから。だから私には人としての強弱や優劣はありません。
一番強いんじゃなくて、一人強いんです。
また私の中には、ひとり弱い。ひとり魅力だけれども、ひとりダメな部分もある。全て一人です。
皆様や大衆ではなくみんな、ひとり!ひとり!です。
そのようなひとり立つところの自分を創造する。そのために心身を刻むように真剣にエイ!ヤア!トオ!と気合いをかけるのです。
一息、一息に全身全霊を込める、一刀両断の心境で打ち込みます。
その全身全霊の一刀両断で自らの「非」を斬る。これを気合術の方では「非切」と申しております。
自分がそう思い込んでいる、固定観念、ああだ、こうだ、という幻覚、幻影を「スパッ!」と、切り捨てていくんです。
私は皆さんに「気合鍛練での三つの重要な学び」ということをしょっちゅう言っていますね。
これは角度を変えてみると「人間を学ぶ」という事にもなります。
気合の体得には、とにもかくにもこの3つが何にもまして重要だ!ということです。
さて本日は初めて見えられた方も多いので、改めて述べさせていただきます。
一つは「感性」、一つは「識性」であり、一つは「悟性」です。
感性というのは、自分が今どういう状態なのか。自分の姿勢が狂っているか狂っていないか、考えている事が良いか悪いか、常に自分を自分自身で観察する力です。
人からの言動は関係ありません。自分で自分を冷静に見る眼、これを持たずして上達は絶対ありえませんよ。人からの指摘なんかまったく関係ないです。そんなものは参考意見に過ぎません。
現実に自らが感じないことは直しようがありません。無理に矯正すると違和感や微妙にバランスが悪くなり、不快からまた元に戻ります。自らが感じたことだけが、その原因を理解し、直し方も判ります。
ですから、その意味では私の言っている事なんかも耳に入れておいて聞かなくて良いのです。ただ感受性向上の参考にする、のみです。
この感受性というものを常に磨き上げる。自分自身を冷静に見る。
ですが、一面ではこれは辛いことです。またその秤になる感覚が分からない方は、例外なく皆さん集団に入ります。
催眠術の焼き直しのような宗教に入ってみたり、何かにハマってみたりする。催眠術は解くことを知っておけばよい、また、はまっちゃダメです。感受性がさらに低下しますよ。
感受性を持っている人間は常に一人立つ。一人生きる。何物にも寄りかからない。何物にも助けられない。庇われない。姿勢というか心意気が重要なのです。
次に「識性」ということです。これは自分がやっている事の目的、または聖中心道肥田式強健術だったら、その手段として「腰腹同量正中心の鍛錬」ということの真意を理解します。
この「腰腹同量」という意味はどういうことなのか?
これを鍛練している時の、手はどういう様に運用したら法則にあうのか?
無理がないのか? 合理的なのか?
これらの疑問の目的は、あくまでも腰腹同量に力が籠もる!ことが合理です。
気合もまた手段ですからね。気合の体得が目的じゃないんです。
気合いを体得するというのは、春充先生が達成されて気合鍛練として残された肥田式強健術の目的である「八大要件の体得」や、聖中心道の目的「脳幹部聖中心の思考停止」を図るための手段ですね。
手段と目的の明確化を図ることが識性ですね。
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其の六
改めて肥田式強健術の鍛練の目的を申しますと、先ほども言いましたが「八大要件の体現」です。
この八大要件をダイジェストで申せば、まず筋肉の発達。
「筋肉の発達」というのは、筋肉量と共に柔軟性や弾力と重要な要素もあります。これが筋肉の発達の真意です。
それから「内臓の壮健」。
全内臓の血液循環が良くなり、内臓組織の機能向上があれば身体は自然に丈夫になります。癌などもそうですが、万病は「血」の問題です。
東洋医学の至言では「血は命である!」と申しています。例えば、「血行」一つにしても、万病の原因は血の循環が悪くなること。川の流れと同じで「流水は腐らず」ということです。常に動いているものは腐らない。
さらに「皮膚の強靱」があります。
皮膚の病気も無くなる。そらぁそうですよ、我々は脳を鍛えている。脳幹部を鍛えていれば、常に正常なホルモンが分泌されるんですから、皮膚が健康なのは当たり前ですね。
四つ目は「気力の充実」。
「くそぉ、何があっても負けないぞ、世間はどうあっても俺は俺だ」。そういうような腹の据え方。だからちゃんと決断出来る。
気力の充実について、春充先生は「この鍛練の命が気合である。気合があってこそ速やかな効果が出され、鍛練時間の短縮が可能となる」と語られておられます。
それから「姿勢の調和」。
これは「人品卑しからず。」とか「人としての位」という人の評価法がありますね。
それから「体格の均整」。
整体やカイロなどの矯正が流行しておりますけれど、鍛練をやれば独りでに無理なく矯正できています。発達しすぎたところもなければ不足もない、バランスが取れた身体の体現。
そして「動作の敏活」。
動くことを嫌がらない。気をみて積極的に動く、受動的にならないでさっさと動く、本当の若さに繋がりますね。
それから「精神平静」。
古語に「和して動じず!」というのがありますけれど、無刀流を創始した維新の英傑で剣豪の山岡鉄舟翁は常に落ち着いておられた。
ある時に弟子共が酒の席で「先生でも不意に驚かせれば、驚くはずだ!」そんなことはない「まったく驚かない!」とワイワイ始まり、しまいには賭になりました。
それではと、一番大声の出せる弟子を先生が歩く道筋の物陰に伏せて、先生の来るのを待ちますと、先生がのっしのっしと悠々と歩いてきます。
ちょうど弟子が隠れている物陰の角にさしかかった時に不意を付いて「ワッ!」と大声で叫び、脅かしました。
ところが、先生はその脅かした弟子の顔をしげしげと見て「ああ驚いた」と、悠然と言われたそうです。
日常の落ち着きということも大切でしょうけれど、災害や事故に遭遇したときの沈着冷静な判断は普段の鍛練で蓄積される要件なのですね。
『肥田式強健術』を何の為に学び鍛練するかが、この「八大要件」にあります。
春充先生は「型は枝葉である」と申されておられますが、これは気合が内在されていない型は枝葉である!ということなのです。
『腰腹同量正中心の鍛練』は、ただ型を覚えてやっているだけでは、腰腹のどちらにも力が漲りません。
ところが不思議なことに、それがいつの間にか「手の動きがどーの!」「足がどーの」「姿勢がどーの」なんてことを強調して、型を覚え鍛練すれば八大要件を体現できる!と、妙な方向に行っちゃっています。この型中心から脱皮しないと何の効果も出せません。
だいたい毎日鍛練すれば、生涯鍛練できるだけの基礎が一年程度で出来てきます。
一年程度で「腰腹同量」の意味も分かるし、力の状態も感じ取れるようになります。さらに、かなりの骨皮筋エ門でも、始めて1年目くらいから、他人が観てもハッキリと認識できるだけの筋肉も付いてきます。
しかしその為には、日常で猫を背負っているようではいけませんよ。
自分を律するのは自分だけなんだ。人から律せられている間は、自分を丈夫にできないもんなのですよ。
自分で自分を叱責していかなければならないのですよ。他人はホントには怒ってくれない。自分で自分を叱る、自問自答の行為で、自分の心や様々な感覚が傷つきます。
しかし、その傷つくのを覚悟して、傷付けて!傷付けて!行くあいだ段々磨かれて丸くなっていく。綺麗に見違えるように脱皮してゆきます。
磨くってのは傷付けるっていう事なんですよ。
傷付けないで何が磨けるっていうんですか! 玉だって、鉄だって、磨くってのは傷つけるんです。ヤスリで傷付けるから綺麗になっていくんです。硝子だってヤスリで傷付けるから綺麗になっていくんです。
人が綺麗になる!
言葉が綺麗になる!
態度物腰が綺麗になる!
考え方が綺麗になる!
目つき顔つきに綺麗さが滲みでるようになる!
裡の深くから滲み出るように品性が醸し出される!
これを「人品卑しからず」っていうんですけれども、傷付けないで、どこを磨くって言うんですか。
だから「傷つく」っていうのを恐れちゃダメですよ。
自分自身でやっていかないと。裡なる曇りや、汚れや、卑しさや、いたらなさなどは自分自身でしか感知できませんよね!だから自らが実践しなければね、それが大切なんです。
これを磨くのが識性。
「こんなんじゃ駄目だな」と、「ここはもっとピシッとしなくちゃならない」って言う風にやっていく。
気合という全身全霊を裡に込めることが出来る鍛練だから出来るのです!
そして「悟性」です。悟性というのは、こだわらない、思い込まない、ということです。
鍛練は「覚えて忘れる」の繰り返しです。
この世の中には絶対なんていうのは無いんですよ。まあ、知能指数が100あって20、30しか使えない人たちは、この悟性が欠如しています。
禅の方では「花は紅、柳は緑」と言いますけれど、これは「ありのままを観る」ということを意味しています。
わざわざこんな例えを引用するのは、「花は紅、柳は緑」ということがどれほど難しいことか!なのです。
初めから先入観で頭が一杯になっている。思い込んじゃうんです。決め付けるからです。
それから、人と自分を比べて差別する。知能指数のテストで何やったか覚えていますか。そんなに覚えてないと思うけど、集中してやったはず。考え事をしていたら集中なんか出来ないはずです。
考え事と「思い込み」や「固定観念」は同意語なのですよ!
こんなことは誰だって分かっている事だと思うのです、集中という事がどれほど大切な事なのか。
考えてご覧なさい。集中出来ない原因はなんですか? 初めに決めつけがあり、答えがあるからです。こだわるからです。いい加減なところで妥協してしまう。まっさらになって御覧なさい、そらぁすごい集中力ですよ。
ここで一言、「集中力とは物事を白紙になって見つめ直すことの代名詞」です。
ちょっと長かったかな? まぁ、それが知能指数全開のコツです。
白紙で見つめ直す、問い直す、自分の知恵というものを100パーセント働かせることが知能向上の鍵です。だからそこに勘働き(かんばたらき)ってのがある。
勘働きというのは、ちょっとした工夫なんだよね。それに対して理論理屈でやるのが小細工です。
勘働きは「工夫」を生みますね。何ごとに対してもちょっとした工夫です。鍛錬にも言えますよ。
春充先生のこんな分厚いご著書『聖中心道肥田式強健術』がございます。
これは鍛練のバイブルです。鍛練の全てが様々な角度から書いてございます。
されどです!
されど何を書いてあったって、それをどのように解釈するのか?という問題があります。
鍛練や人生の深さにより、10人なら10人のそれぞれの解釈があります。
私はそれをずーっと、30年近く座右の書として、聖職者が片時も話すことなく持ち歩き、暇さえあれば読み込んでゆくバイブルとしてやってきました。
原書の方もぼろぼろだけれど、復刻版はバラバラになってしまい、持ち運びに不便で新たに購入したのが4冊です。
ところが52歳の時にツンドクになりました。
一年に一回通読しますけれど、普段はまったく読みません。
読まないで鍛練するとどうなるか?
それはね!「試行錯誤」、「紆余曲折」、「支離滅裂」、迷いに迷うがでますね。
それでも良いじゃないですか!
迷って、悩んで、苦しんで、どこが悪いんですか?
支離滅裂の何が悪いんですか?
試行錯誤できるということは、思い込まない!という事ですよ。
至らない人間が、駄目な人間が「これはこうだ!」と、いったことが一番危ない、駄目にするのです。
自分は今だ出来上がってないんだから。完成していないんだから迷って当たり前。
「迷う」、「悩む」ということ。それ自体が伸びられる素質なんです。
才能なんです。
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其の七
私が気合鍛練を指導させていただく際に、常に心していることがあります。
それは「先生と呼ばれるほどの莫迦でなし!」という状態に陥らない、ようにすることです。
これを例えれば、「そこはこうだ!」とか「ああだ!」とか、動きや姿勢の「細部まで指導する」というのが普通なんでしょうけれど、それをやると学ぶ方の勘を殺しますね。
勘働きが出来ないと、気合なんかはとてもとても体得できない。
こんな指導を受けたら、その段階で指導された人間はダメになったに相等しい。
教えるのではなく「気づかせる」のです!
それでダメな者はダメで、諦めるしかない、当人が感じ取れるまで放っておくしかありません! それが真伝の学びの本当の親切というのです。
大悟徹底を体得するところの「聖中心道」気合鍛練では、老婆心的親切は御法度です。
禅の方では「バッシ!」とぶん殴るか、「カッ!」と気合一喝で目を覚まさせ、心身を引き締め、認識を新たに取り組ませますが、心得のない方々には無理な指導法なのです。
教える方がちゃんと出来るような心構えが、学ぶ側に見られなければ何をどのようにやったって、言ったってしょうがないのですね。
時期が来るまで「待つ」というのも伝統の優れた指導法なんですよ!
心身改造を本気で完成しようと思うのなら、教えられてはいけません。
昔式の「見い。」というやつで、これは盗むんです!
私は細々聞かれても教えません、やって見せます。何回かやって見せます。ここに勘と識性と悟性が育つ学びがあります。
私自身はあなた方の裡に眠る素晴らしい能力をダメにしないか!教えると言うことが怖くてしょうがないのです。
一人一人に教えるのを一回ずつ気をつけています。あなた方に思い込みや固定観念となるような種子を植え付けないように気をつけております。
先生という者は、つい自分の思い込みを、経験を教えてしまう。それって失礼な話で、やってはいけないこと、将来を考えたら絶対にダメなんです。
私は「腰に連なった腹『腰腹同量正中心の鍛練』は出来ています」と自信をもって言わせていただきますが、『脳幹部聖中心の思考停止』にまで到っているわけではありません。
未だ発展途上の学び人であります。
そのような前提に立てば、自分の経験だってどこかおかしな所や間違えているところがある!という前提に立って指導できないと、いけません。
将来、あなた方が指導の立場に立たれるときには、私のこの言葉を想い出してから、おやりなさいね。
完成までは発展途上、そこには間違いも勘違いもあるのです。だからこそ、肩書きも名乗らず、団体も造らず、名誉とか権威とか、などからは無縁でやらなければダメなのです。
春充先生は「肥田式強健術を学ぶ者は団体を造るな! 肩書きを名乗るな! 権威とは無縁であれ!」と強く繰り返しておられるわけで、現在でもこれは、公共の施設やいろいろなお付き合いのために、責任がとれる代表が一人いるだけのささやかな団体で十分なのです。
それを肥田家公認とか!、正統とか!、直門とか!某有名古武術研究家の先生とかを顧問にしている。
まあ〜とにかく麗々しく飾り付けております。
会長、副会長数名、理事、幹事に顧問などを列べて正統などと!モノを言っております。
「虎の威を借る狐」とはよく言ったもので、中身のないのが肩書きだけでも理解できるのです。こんな奴らにかぎって、排他的で内々に固まり、批判を許さない。ここに進歩がありますか? 自由闊達が許される空気と批判精神、同門が切磋琢磨を見せての叩き合いがなくて、精神性を涵養する向上があるのでしょうかね? こんなことを改めて聞くまでもありませんでしょう。
古語に「悪貨は良貨を駆逐する」とありますけれど、私はこんな奴らとやり合っているのがイヤになって、40代半ばから50代前半にかけて引っ込んで一人稽古に専念しておりました。
ところが、その間に正統伝承人を自称する鈴木某だとか、「マジックマッシュルーム使用すると悟る」などとHP上でも幻覚キノコとスリコギを売りつけた反社会的な指導をしていた奴などもでる始末。
そしてさらにこれらを批判するならともかく、有名雑誌で肥田春充先生まで批判するという有名武道家などが出るなどで、大混乱を呈しておりました。
肥田家公認などと名乗るのなら、それらと堂々と是々非々をやり合うのが義務でしょう。
まったく引っ込んで義務を果たさない!
通夫先生に学んだ時期は異なりますが、それを見ていた伊豆八幡野肥田家の道場で同門の兄弟弟子の方々から「佐々木さんが、二代目を継承した肥田通夫先生のただ一人の看板授与弟子なんだから、何が正しくて、間違いなのか、を正す義務がありますよ!」との手紙が来ました。
そして同門の他の方からも、「看板を拝領するというのは、何の学びでも軽々しくはないのだから、隠れて一人楽しんでいないで、世に見せなさいよ!」と、度々に渡り強く要請されたわけです。
それで初めて武道雑誌の月刊『秘伝』で授与された大看板を世に紹介したのです。外に持ち出したのはこれが初めてだったのです。
その後、肥田式強健術といえば足を固定して学ぶ「簡易強健術」というほど流行していた「型が出来れば能力が開ける」という風潮から、真伝は「気合」であって、実際の鍛練は豪快かつ加速的に「ガツ!」、「ドカッ!」と、全型が気合で誘導されて動くのである!と雑誌などで展開して、今に到っております。
ところが、今でも「逆腹式」の型中心が広く学ばれていて、その腰抜けのだらしない型を「晩年の型」として指導しているそうです。
「晩年だから気合がない」そうですけれど、聖中心道肥田式強健術に気合がなければ、型が成立しません!
気合は型の命であり、効果の源泉なのです。
ですから当然の如く、最晩年に到るまでさらに気合が重要視され、大悟徹底前の「臍下丹田よりの気合」から「脳幹部聖中心からの真の気合」へと、凄まじい威力の気合に昇華されておられるのです。
戦後は鍛練で引き出した超能力の数々を公の場で見せられましたが、その際でも「ウムッ!」という念の気合で腰椎と仙骨の接合点を反折させて、下腹部に密な仙骨神経叢に強力な刺激を誘起し、その刺激が脊椎を伝達して行き脳幹部の思考停止に到り、結果「脳幹部聖中心」からの念力が生まれ、数々の摩訶不思議能力をお示しになられたのです。
このような鍛練による効果発現の機序が理解できるのなら、気合なき型など残される訳がないのであります。
自らの鍛練が到らなくて「気合が出来ない」。それを「晩年の型である」と、臆面もなく宣う。私などは恥を知る人間ですので、こんな鉄仮面的神経が理解できないのです。
人は何時かは死にます! 次元を変えて活動するわけですね。
私は一息一息に全身全霊を打ち込んで鍛練できる「気合鍛練」を学ぶことが出来たことを、人生の何にものにも代え難い果報である!と深く、深く感謝しております。
そして、これだけ完成された心身鍛練法は二度と出来ないと確信しております。
そして「腰腹同量正中心の鍛練法」を、『日本が世界に誇る人類の文化遺産である』と、誰かれかまわずその素晴らしさを語っています。
そのような学びを出来るだけ正しい形で、出来るだけ学びやすい環境を、後世の方々にも残してあげたい!と強く念じています。
我々が亡くなった後々のことも考えて、自由にお互いが批判しあいながら、進歩向上してゆく、そのためには権威や肩書きでモノを言う団体などは邪魔なだけですよね!
さあおいで。
陰口!悪口!嫌がらせ!責任は私一人が背負ってゆきます。
公開で言った以上は、責任の所在も明記します。
全ては佐々木了雲が甘受させていただきます。
この文を御覧なられた団体関係者の諸君は、ご遠慮なく公開質問状でも何でも寄こされてください!
お待ち申しております。
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其の八
いやぁ〜申し訳ありません、話が脱線しました本題の鍛練に戻しましょう。
「悟性」についてですね!
私は毎回同じ事は絶対言いません。常に違う角度から、違う角度で指摘し、指導しております。
ある方々が、私の処で学びたいと申し出たところ、その先生から「佐々木の所は毎回コロコロ違うことを教える」からとの注意を受けたそうです。
これは本当ですよ!
昔も今も指導法は変わりません!
これは、常に初心で、気持ちを新たにして、学ばなければ心身にたるみが生じる!ということを防ぐためです。
毎日の繰り返しの稽古で、常に真剣、リフレシュというのは、この道30年近くの学びを振り返ると本当に難しいことだと痛感しております。
禅の方で「禅問答」というのがありますが、それと同じです。
疑問を呈することで、新鮮な目で現実の稽古を、行為を見直す! そのきっかけをつくります。
それによって自分で考える、必死で解答をだすという工夫をするんです。
同じことばかり言うと固定観念になっちゃう。いつの間にか刷り込みが始まっちゃう。広告宣伝を繰り返すことで、無意識にそれを擦り込まれてしまう。
自分が確立していない初心者の内は、同じ事ばかり聞いていると「それが正しいのだ!」と思い込んじゃう。
一度擦り込まれるとなかなか抜け切れません。こんな洗脳と同じような指導をすることは、相手の人生をも縛ることになります。
失礼ですよ。みんな前途洋洋としたものがあるのに。こんな習い事で一つの刷り込みをされてしまって、それ以後の人生の幅を狭めてしまう。
こんな事って良い訳がありませんでしょう。
学ぶ方は人生を向上したい、八大要件は無理でも、一つだけでも良いからモノにしたい!と胸を膨らませて期待を新たにして学びに来られる。そのような方々を洗脳して金を巻き上げ、時間を無駄にさせる。
よくないことですよね。
そのような雰囲気を創らない、陥らないための禅問答的な学び方は「賢脳育成」があります!
であるならば、学ぶ側も指導者も、共に前途洋洋、先は末広がりに広がっている!
私の人生もそうです。
毎日が気力に溢れている。
肥田式強健術を学ぶ本来の目的である「八大要件」を思い出して御覧なさいな。
筋力の発達・内臓の操練・皮膚の強靱・気力の充実・体格の均整・姿勢の調和・動作の敏活・精神の平静という八つの要件、これがそこそこでも、少々でも体得できたら、人生上で何に困るんですか?
アナタ。何か困る事ある? 何も困らないでしょう!
世界中のどこへいったって、このような堂々とした人間を誰もほっときゃしないですよ。
世間様を見てご覧なさい。生活習慣病に花粉症です! さらに若年性認知症などなどです。
現代日本は数え上げれば切りがない半病人社会です。そのような半病人社会で、胸を張って、生涯に渡り心身共に賢脳を含んで生ききるのだ!と、本心から明言できるのなら、金も時間もそこそこ懸けたって、惜しくはありませんでしょう!
賢脳と言えば、「聖中心道肥田式強健術」以外の学びでは、正直なところいろいろ見回してご覧なさい!
あちらこちらで皆んなほとんどが、右脳だ左脳と脳の表面ばかりを使用しての訓練というのか、パブロフの犬的学習法ばかりをやっている。大脳皮質を、それを如何に活動させるか、と言う事を勉強している。
こんな事ばかりをやるからずるくなる。ずるい人間では精神の確立というか、本当の幸せなんか絶対得られませんからね。
同門諸君は無縁でいなさいよ!
ずるさを捨てる、小細工は要らない。大脳皮質じゃない、もっと脳の中枢を鍛え上げるんです。それが我々が惚れて学ばせていただいている肥田式強健術であります。
脳の中枢は「脳幹部」です。聖中心道では「聖中心部」と命名されています。
現代の進歩が著しいといわれる脳科学の世界でも、脳幹部のことはほとんど言われておりません。この脳幹部の重要性を言っているのは、我々同門諸君しか認識していないですから、面白いですよね!
明治生まれで、激動の近代を闊歩された科学者で、国士で、武道家で、体育家で、真の宗教者であらせられた「聖中心道肥田式強健術を創始された肥田春充先生」しか申されてはおられないのです。
本当によくよく学んでみますと、そのような勿体ない「根本的心身改造賢脳法」を学ばせていただいているのです。
これを感動と言わずして何というのですか!
感激せずして学べますか!
このような学びをラジオ体操やそこら辺のカルチャーセンタの学びのようにお気楽に指導して、学ぶ。本末転倒もはなはだしいと言えますよね。
ですからね、目の色を変えて真剣に、真摯に学びましょうね!
本物に成る!
目的を手にして心身の大改造を図る!
そのためには、日々コツコツと継続することです。
ただそれだけが、ある日「フト!ああ幸せだ、何と気持ち良いんだろう」と感じるようになるのです。こんなことは時間がかからずに感じられるようになります。
それからね、もう一つ私が皆さんに言いたい事があるんですけれども。
それはね、人には一流に成れる人と、二流で終わる人と、三流を全然抜けられない人の3タイプがいるんです。
これにはどうしようも無い部分があるんですけれども、しかしね誰だって本当は一流になれるんです。誰だって一流になれるのに、二流で終わる人、三流で終わる人がいる。
何んで違いがでるのか?という事ですよね。
私は気合鍛練で培った「腰腹同量の中心姿勢」のままでワープロを打っている、中心姿勢のままで絵を描いているんです。この姿勢のままで食事するんです。この中心姿勢のままで会話するんです。寝ていても中心姿勢です。もちろん寝返りもうちますし、時には姿勢を崩してだらしない格好もしますよ!私は人間であって仏様とは違うんですから!
ですが無意識の姿勢のほとんどが、気合鍛錬での呼吸や姿勢や動作っていうものと日常生活となんら変わらないのです。まったく自然で違和感がありません。
鍛練最中でも終了後も同じ中心姿勢のママです。私の中で日常生活と鍛錬は一体なんです。
だから道に於いては一流です。
私が道を歩くときに何をやっているかと申しますと、「腰をグッと巻き込んで自然にHARAが据わる」様な姿勢で立ち居振る舞いをしております。
何故、腰を巻き込むかと申しますと、腰の力を使わないと上腹、下腹両方の腹部全体に力が入っちゃう。逆腹式になってしまうんですね。このような横隔膜を落下させる姿勢や呼吸法や立ち居振る舞いだと、呼吸が苦しくって姿勢の自由性が失われ、かえって腹に力が入らないんです。
ほら、それに対してこの中心姿勢をご覧なさい。腰と仙骨接合部をグッと反折させて、上半身が柔らかく腰にノル、自然に下腹だけに力が入ります。歩けば自動的に自然に「泰然自若」となるのです。
この中心姿勢は呼吸も姿勢も動作も苦しくはありません。非常に楽です。ですから長時間、無意識に維持できるわけですよ!理屈抜きですよ。
さて、二流で終わらざるを得ない人っていうのは、型鍛錬は熱心にして1日2時間3時間やって出来るようになる。でも日常生活にそれが使えないんです。日常生活と鍛錬というものが分離しているんです。
もっとダメな人は鍛錬そのもの自体が出来ない。それはもう三流で終わりですよね。
何でそこ迄しかできないのでしょう。
それはね!鍛練に無理があるからです。不快があり、不自然があり、理屈があり、小細工があるから、錯綜として中に輝く光り輝くオーラが発している道であるところの自然の法則に乗れないのです。悟性ということの大切さ、「覚えて忘れる」の繰り返しを学んでいないのですよ!
このような方は、残念ながら真伝の学びには今生縁が無い、生涯に渡り肩書きや名誉や毀誉褒貶に一喜一憂して終わらざるを得ないのですね。
もう一度生まれ変わっても、その頃に肥田式強健術がどうなっているか?わからないじゃ〜ないですか。
今生ご縁を頂くことが出来た、こんな有り難いことはないわけで、絶対に完成できなければ、次は何時だかわからないのですよ・・・。
分かりましたか真伝の学び方を・・・?
ちょっと話が長くなっちゃったけれども。覚えておいて頂きたいのは一人一人の中に眠っているパワーは平等にあるのですよ!それを気合鍛練で全開しなさいよ、その為に全霊を打ち込んで一息一息刻むようにやる。同じやるのなら真剣にやらねば勿体無いでしょう、
何をやったって・・・。自分の人生を信じなさいな!
自分の人生を信じきれない人はね、自分を何かと比べている、そんな馬鹿な事をしている間は自分の運をドブに捨てています。運が良い人と言うのは、自分を信じる事が出来る人なの。それだけで運が良くなるんです。
人と自分を比べない。比べると差別するから。比べると人を呪ったり、人の幸せの足引っ張ったりする。比べない人間はそんな事しないです。皆が幸せになるように、比べなくなれば自然にそう思うようになります。
感性!識性!悟性の「三性」は、気合鍛練の基本なのですから、十分に把握されて学んでくださいな!
おわり
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