肥田式強健術真伝

2011年11月16日

肥田式強健術真伝 114

 
 私は通夫先生から学んで一年ほどで型の基本が出来るようになり、その時点で「肥田式普及のために東京で教えなさい!」と言われ、自分では未完だと思いながらも指導を始めました。ですが、気合は命がけで学ばないと体得できないというのなら人に教えている時間が勿体ない、学びを集中するために指導を徐々に縮小してゆくことにして、自分の稽古の充実を図りました。

 通夫先生は戦前の教育を受けられた方ですから、いたずらに弟子はとりません。私も入門に当たり弟子入りを認めてもらうべくお願いしましたが、「私は弟子はとらないから友人として来られたらよい」と、弟子入りは拒否されました。そこを再度プッシュ、さらにプッシュして誠心誠意を表し、根比べに勝たなければ弟子として認められ真伝を教えてもらうまでには到りません。古伝などの学びをされたことがない方はこの辺りの機微が判らず、先生から「友人として扱われた」と自慢げに書いてある本もあります。
 弟子だからこそありとあらゆる質問が出来て、基本の基のまったくの初心から学ぶことが出来るわけです。人生の一大事の学びがお手軽に学べる、縁を持てるなど無いわけです。人生を引っ繰り返すコペルニクス的学びには「学びの教養」という、正門から入学するに当たっての道筋があるのです。それを身に着けているか、どうかは人生の一大事の入門時に判ってしまうのです。

 ほとんどの学びでは、「型」という動作の道筋が一定に決められた手順に従えばよい!というのが常識です。ですが、気合鍛錬では決められた手順通りから逸脱します。気合に上達すればするほど逸脱は激しく随所におこります。この動作の逸脱は、気合により生じる加速を原因としておこります。これは加速による緩急や間の取り方、上半身と下半身のバランスとか重心の位置、気合の有無や上達度などでまったく違ってきます。この加速による緩急や間が異なれば、動作の手順も大きく異なるのです。
 この型動作における違いは、気合を成立させている息遣いの強弱と体得度にあります。俗に物事が上達した、技などが自由になった状態を「呼吸が手に入った」、「呼吸がのみ込めた」などと申します。物事における呼吸、術や技習得における呼吸という意味こそ、緩急と止息の間積もりのことなのです。
 気合鍛錬は加速を生み出すからこそ「力学」を必用とするのです。気合が入らない型中心のユックリ動作に、小難しい力学など必要ないわけです。

 気合は腹力と同意語です。人生の達人は腹芸が出来る人と言われます。何ごとにも真面目でもなく、間抜けにもならない、対するにイイカゲンの態度であり、人やモノとの距離もまたイイカゲンということであります。
 この姿勢は村夫子然としているけれど、泰然自若は腹芸で創り出すというわけです。腹芸は腹力で創ることを知れば、気合鍛錬が英雄・豪傑・神仙の学びであることが理解できるのではと思います。

 それにしても現在のような実利一点張りの教育では、人物がセコクてコマイ小人に終始してしまいます。すでに腹力活性の人造りを目指すところの心身改造法は廃れてしまっておりますが、人生活性のために、この書を機会として気合、すなわち腹力、それによる腹芸習得をお勧めさせて頂き、後書きとさせていただきます。


2011年11月 気合了雲 記



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2011年11月10日

肥田式強健術真伝 113

 
 学びの初めは、春充先生の継承者の肥田通夫先生のお弟子であった荒波宇吉先生に、「簡易強健術」という型を大塚の学生修道院で学んだことが今に至るきっかけです。
 この学生修道院は上がアパートになっていて、しかも住宅密集地にあるために気合発生が出来ません。そのために型動作のみを学ぶということで、鍛錬をやり込んでも、腹力どころか、それなりの充実感もありません。肥田式に求めた本来とはあまりにも異なったため、数回通って止めました。

 正式な真伝の「武道の精華たる気合で腰腹同量正中心の鍛錬を行う」肥田式を学びたいと望んで、夢が叶ったのが三十二才の時でした。
 私はその頃、京王線の笹塚というところで道場を構えており、通夫先生には伊豆八幡野松ヶ岡上の肥田家と東京の私の所とで学びました。
 当時は学んでいる方がほとんどなく、稽古は個人教授でありました。通夫先生は戦前に四年ほど肥田式の稽古をされ、戦後に春充先生がお亡くなりになる十年を秘書としてお側に仕えています。ガッチリとした身体で、全型を習得された唯一の方です。しかし気合を本格的に修行された方ではありませんでした。

 私は通夫先生に学んで三年ほどで全型を習得しましたが、その時に先生に気合習得について質問させて頂いたことがあります。「武道の精華たる気合は型を修すれば体得できるのですか?」と。
 私は気合を学びたいのであって、動作や技は二の次だと思っていたのです。この時は稽古が終わった後に頂くお茶の談話で、先生は「私は気合を本格的に学んでいない。気合は型を学ぶのと違い、生涯を鍛錬に使い、命がけでやらないと出来ない!」。さらに「気合習得には腹力を籠めて気合応用型を学ぶのがよい!」とアドバイスを頂きました。その後も気合習得のために春充先生の気合発声、息遣いの稽古の様子や、示唆された事などを繰り返しお聞きしました。
 あまりにも気合のことばかりを聞きますので、終いには呆れたご様子で「佐々木君のその集中力なら気合が復活できるかも知れない!」と励ましてもいただきました。

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2011年11月04日

肥田式強健術真伝 112

 
 本文でも書きましたように、私は十九才の時に「剣と禅」(春秋社刊)という本の中で肥田春充先生と肥田式を初めて知りました。幼少時から各種武道を学んでおりましたが、本当の強さは、肉体や技だけの物理的手段の構築だけでは無理であり、潜在能力とか摩訶不思議能力の覚醒無くしては無理なのではないのか?という悩みが渦巻き、座禅を組み、ヨーガなどもやり込んでおりました。

 そんな時に「剣と禅」を手にしました。
 この本では武道の名人はただ単に筋力や技の巧者ではなく、超能力を引き出し自由に使えた人であった。として、現在の剣道や柔道などの勝敗や段位などにこだわる武道を批判しています。そして続けて、内なる能力を引き出せなければ上手で終わってしまい、達人にも、名人にも成れない!とあり、大変に納得した次第です。
 著者は大森曹玄師という臨済禅の師家で、直心影流剣術の達人が書いた本です。大森師は剣術の名人で、現在の神田電気街にあった幕府講武所筆頭師範としても盛名が高かった男谷下総守、その弟子で系譜を受け継いだ榊原謙吉の直系でもあります。榊原は幕末の名人で、明治政府から大警視に就くよう求められながら潔しとせず、黙々と市井で生きた誇りの人です。武道復古と幕末の変革期に生きた男谷、榊原、それぞれに今に伝わる数々の武勇伝があります。

 この榊原の弟子で、宗家を継承され大森師の師匠だったのが山田次朗吉師という名人です。山田師には明治になり消えつつあった古流剣術を記憶に残すために編纂した「日本剣道史」、「剣道集義」、「続剣道集義」があります。この山田師は超能力の持ち主で、「関東大震災」を予言するなど、普段から予知的予言をして評判だった方です。
 そのような予知能力の持ち主である山田師の「日本剣道史」には、師が「二百年に一人といわれる名人の逸話」が紹介されています。それが白井亨と寺田宗有という名人です。山田師の紹介では二名人とも超能力の持ち主で、共に「剣術は霊妙の働きを体得せねば本物とは言えぬ」とあります。霊妙とは字のごとく超能力のことです。この二名人共が仙道の「練丹法」を学び、あるいは禅を究め、剣に威力を活かしたのです。

 私は「剣と禅」で肥田式と春充先生のことを知り、いろいろ心当たりを訪ねたのですが、二十代半ばまで縁が頂けませんでした。

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2011年10月10日

肥田式強健術真伝 111

 
「あとがきにかえて」


 気合は内にエネルギーを充実することが基本です。
 さらに第二段階として、内に充実した状態から対象に向けて発することを学びます。この内の充実が裂帛の気合となって発声されると、人を倒す力を生み出します。また、人を活かす力ともなります。

 聖書に「始めに言葉ありき、言葉は神とともにあった」とあります。
 言葉は共鳴という、微妙な振動が全身の五感を通じて、脳神経に影響を与えると思われます。この共鳴という現象が自らの身体に高まれば、末梢神経、中枢神経を刺激して、潜在能力を覚醒する力となります。
 人の声には感情が含まれます。声の中に含まれる感情に共感し、否定し、などの影響で、人は何らの反応を起こします。

 私はこれまでの鍛錬で体得した気合を殺法として使うのではなく、治療の分野などに活法として活用すべく、さらなる磨きをかけております。
 それから、肥田式という気合鍛錬唯一の看板授与弟子としての義務を果たすべく、五年ほど前から本格的に後継者の育成を心掛けて来ました。喜ばしいことに、この頃この成果が出つつあり義務は果たしたのだから、今後はさらに悟道にスタンスを置いた武禅気合に切り替えすすんで参るつもりです。

 春充先生はこの鍛錬を学ぶ者は「団体を作るな!」と注意されておられます。会長や副会長、理事、幹部などを要すれば、学びに権力社会が生じて、個人の才能こそ大切である、気合鍛錬本来の稽古が出来なくなるからです。
 私の処に学ぶ弟子には、責任がとれる代表一人の同好会にするように申しております。ちなみに私が主宰する丹田研究所も代表一人で運営しております。本来は同好会形式も不必要なのですが、公共の施設を借りるなどでは個人では借りられません。そのために責任者明記の会は必用となり許可しています。

 気合人であっても生活の場が、欲望ドロドロの娑婆世間に息して足掻いていれば、泥にまみれるのは当たり前です。ただその泥を魂の学びでもあるこの鍛錬に持ち込まないこと、を心掛けるようにします。

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2011年10月04日

肥田式強健術真伝 110

 
療病雑録(二十)


 人体の物理的解剖的正中心に衝き当たると、そこには、沸々として、宇宙生命の流れがほとばしり出る。その流れに浸される時、片々微々たる小我偽我は、忽如として、殲滅し尽くさるるものだ。しかもそれは、機械的に、瞬間に発現し来たるものなるにおいて、まさに知る。人生無比の至宝なることを。

 無理解、誤解、非難、・・・だが我が胸は、独り真理に直進する。聖戦の勇士たる誇りにほほえむ。

 なんじの正中心を究めよ。限りなく高く、限りなく深く、限りなく広く、限りなく美しく・・・汲めども汲めども、尽くるところがない。虚無清明の絶対境。

 どうせ、死に行く生理的運命にあるものならば、いろいろのことで、いじめずに、安らかに、死んでいってもらっては、どうじゃ。確定的帰結がわかっておったならば、何人もその方を望むであろうけれども、それが判然しないがために、どうかして助かりたい。助けたいとの切なる願いからして、かえって死期を早めるような、小細工のみをやる場合が、すこぶる多いものである。中には腸チフスから、腸穿孔によって、腹膜炎を起こし、必死の運命にあるにもかかわらず、その臨終間際に、食塩注射までするのを、私は実見したことがある。死期まさに迫った時の、カンフル注射や、酸素吸入や、ブドウ糖の注腸など、すべて無意義の操作にすぎない。取る力のないものに、つぎ込んだところが、何になる。

 なんじまず、至純なる正中心に覚醒せよ。なんじはそこに初めて、自然の真を認めることができるであろう。正中心に生きて、なんじは初めて、宇宙生命の活発々たるに触るることができるであろう。そしてそこに、なんじの新生命、真霊魂は、若芽の如く、スクスクと萌え出ずることであろう。

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2011年09月28日

肥田式強健術真伝 109

 
療病雑録(十九)


 治す法則は簡単だが、それを実行し、その偉大を顕し、その効果を収むるのには、細心の注意と、不撓の忍耐と、不惑の明知とを要する。

 治癒能力の保護誘導さえ、わかって、それさえ、正しく守れたならば、我が故郷こそ、最適の転地療養地であり、我が家こそ、最上の病院である。我が家族こそ、最良の看護婦であり、我自身こそ、最高の名医である。

 天地宇宙の現象は、刻々変化しつつあって、大初より永恒に至るまで、同一の現象は、一瞬間たりとも、あり得ないけれども、宇宙の実体と、法則と、真理とは、万古不磨である。

・ 生は死よりも強し。すでに生まれた以上、生を全うすべき意義と、力とがある。

 天と地との境地に至り、大自然の中に描かれたる真理に、身を持って相触れるに至れば、何を読む必用もなく、何を調べる必用もなくなる。すべては明らかに眼前にある。何という自由、何という気楽さだ。何を求むるものはなく、何も望むものはない。すべてはことごとく、満たされている。天恵はこの身に余って、負いきれぬ程だ。このままでよい。このままで充分だ。このままで、あるれこぼれている。

 万物は、法則のもとにあり、法則のもとには、力あり。力のもとには、生命あり。生命のもとには意思あり。

 日々、若き世界だ。

 正中心に生くる身は、プリズムを目にあてて、一切をながめるようだ。一切は七色に輝く。空も、海も、山も、川も、野も、森も、岩も、砂も、・・・人も、獣も、鳥も、虫も、オオそうして悪人までも美しく見えるのだ。一切は輝かしく、穏やかに、柔らかに、暖かに、芳しく、・・・一切は幸福と、恩寵とに満たされている。そうだ。平和も、喜びも、すべては、正中心のうちのうちから・・・。底の底から・・・。奧の奧から・・・。

 真理に対する、命がけの努力、まさにこれ無上の聖楽、紛々たる俗毀誉の如きは、砂上の塵と等しきのみ。

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2011年09月22日

肥田式強健術真伝 108

 
療病雑録(十八)

 天地は、整備完全なる大病院なり。自然は最上の医師なり。

 痛みにも、病にも、自然の道にさえ順っておれば、一定の峠がある。峠を上がるまでは、悪症状が現れるが、それからは下り坂で、だんだん回復するものだ。

 名医大医ほど、自然を重んじ、自然に従う。

 熱も、痛みも、嘔吐も、下痢も、すべて治療進行中の一現象である。

 便秘は恐るべしだが、下剤は良くない。薬剤はもとより、微温湯の浣腸も、なるたけ避けたい。そして食物で自然に通じがあるようにしたいものだ。

 生存能力即治癒能力。

 疲れたら休む。眠たければ眠る。自然の真要求に従え。

 病気にならぬ身体となって、さて何とする。ソンナことは当たり前だ。山野の鳥獣を見よ。強大な力持ちとなって、さて何とする。虎や象を見よ。殺人強盗も、弱い者にはできない。・・・では、強くなって、どうするのか。働く。働いてどうする。家を調え、国を富ます。よし、それから先は、何とする。即ち、心身鍛練の最終目的は、何か?。いわく、「自己中心の光明生命をひらき、我が隣を、善化し、美化し、地上に天国をもたらすにあり」。

 栄養物とは、うまい、高価な物と、心得ているのが間違いのもとだ。

 貧しいから助かる。貧しき者は幸なり。もう駄目だといわれた、あの人、あのじいさん、あのばあさnん。みんな元気になって、歩いている。どうして助かったのか。貧しいからだ。貧しきが故に、医薬の力を借り得ず、滋養責めをなし得なかったからだ。天は公平だ。平素足らざる者を、恵み給う。あわれ、貧しきもまた、天寵の一ならずや。

 自然といえば、ありのまま、ひとりでの成り行きの意味であって、意思の存在を含まない。けれども私は、自然は意思の発現だと言う。即ち自然の根源たる生命を重んずる。しかし、意思の力と、生命とが、すでに一定の法則と、型とのもとに、現れている以上、規則正しき自然現象と、その理法とを、無視するわけにはいかない。これが私が、生命力、精神力を尊ぶと共に、自然の理法に対して、細心の注意を払うゆえんである。

 適当の安静と、適当の栄養、この簡単な方法厳守によって、完全に治される道が、万人に与えられているところに、天の恩寵がある。だれでも治る。だれでも、たやすく治される。どんな病気でも治る。治る力を、だれでもが持っている。治す力を、だれにも与えられている。

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2011年09月16日

肥田式強健術真伝 107

 
療病雑録(十七)

 病気にかかる原因は、病菌に身体を暴露するというよりも、身体の抵抗力低下の方が、はるかに重要な関係をもつものである。かって、ドイツのある工場では、チフス菌の入っておった井戸水を、五百人が飲んだが、発病したのは、その中の虚弱な者十四人だけだっあそうである。

 麻痺的鎮痛剤で、一時痛みが緩解されると、素人目には、いかにも治ったようにみえるが、それは薬質上、胃腸と脳とへ、必ずいくつかの悪影響を与え、回復を遅くするものである。

 病気になったら、まず心身の安静によって、できるだけ無用な精力の消耗、および身体の疲労を避け、自然療能をして全力を挙げて、病魔駆除に活動せしむべきである。

 老衰現象とは、人体の各臓器が退行萎縮的変性を呈して、一般生活機能が、鈍くなることであって、一律に何歳からと、決めることはできない。老衰の予防は、新陳代謝を盛んにして、内分泌作用を助成し、血行を良くして、臓器の進行現象を強めるにある。

 薬物の乱用は、消化器、循環器、神経系統を害して、全身の抵抗力を鈍くし、治癒能力を減殺して、かえって病症を悪化せしめ、回復を困難ならしむ。

 空気をうまく食べる法は、中心の真健康をもって、仰臥、静的自然呼吸をやるのである。そして一切を捨てる。捨つれば解放される。解放されると、大自在を得る。「放てば満つる」。「その生命を捨つる者は、これを得べし」。「これを死地に致して、しかして生く」。この境地に入ると、空気は吸うのではなくして、入って来るのである。生きた大気が、静かに、歌いつつ、踊りつつ、音楽的リズムで、入って来るのだ。そしてうまい味とかおりとを、鼻から、のどから、気管から、肺まで、与えながら、往来する楽しさ、快さ。この領域まで来ないと、睡眠の本当の恩寵は、わからない。

 人は天真の道に立てば、孤独となるものだ。それをはずれて、俗情に迎合すれば、その周囲は、たちまちにぎやかになる。されば真人は、みずから立つの中心と、中心の生きる天とがなかったならば、極北の氷野彷徨うがごとく、堪え難きその寂寞は、彼を駆って、狂わしむるに至であろう。

 人は病のために、死すものにあらず。この恐るべき、驚嘆すべき定理は、明らかに成り立つのだ。病気のために、人は死ぬものではない。何と・・・偉大なる、そして光輝ある福音ではないか。

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2011年09月12日

肥田式強健術真伝 106

 
療病雑録(十六)

 心配なし、何ごとも心配なし。心配したからとて何とする。人事の一切は、ただ最善を尽くしさえすれば、それで良いのだ。これでは心臓を痛めはせぬか、肺が悪くなりはしないか。アッ、あの子の顔色が悪いぞ、病気ではないか。この子の様子が変だ。暑気を受けたのではないか。・・・かんだ・・・そんな取り越し苦労は、捨ててしまえ。よし、病気になったからとて、簡単安全に治る方法があるのではないか。冷静に注意するのは良い。むだな心配で、自分の神経をいじめ、自分で病気を製造するの愚をなすなかれ。

 野菜は、生もしくは、生煮えで食べれば、何でも身体のために、良いものであるが、一番効果があるのは、青い野菜である。カロリーは低いが、その葉緑素は、太陽光線の変化物あって、生きる力を養うのに、最も必用なものである。即ち、葉緑素は、太陽光線の放射エネルギーを変じて、化学的エネルギーとなし、これによって葉緑が、空中から吸い取る炭酸ガスと、土中から吸い上げる水とを化合させ、糖分を造り、この糖分は、さらに複雑高級な蔗糖となり、また澱粉を作り、繊維素を作り、脂肪を作り、窒素化合物と共に、タンパク質を作るのである。この緑葉の中の合成反応は、ただに植物のみならず、一般生物の食物を作り出すのであって、つまり我々の死活の鍵を握るものであるといっても、差し支えない。

 便秘は、各種疾病の原因となる。いかなる疾病も、通じがついておれば、それだけ軽快におもむくものだ。

 お産をすると、正規の場合で、約二合の血液と、体重の十分の一を失うものであるが、これは、自然に失ったのであるから、また自然に回復するのを、待てばよい。補給するのだといって、無理につぎ込むと、かえって不良の結果を招くものである。すべては自然に従うことが肝要。

 百グラムの飯は、胃中にあることが、二時間と十五分だが、同量の重湯は、四時間たたないと、胃中を去らない。

 生理的機能は、人間も、サルも、犬も、猫もみな同じである。

 肺結核にしても、毒素の中毒作用として現れ来たる発熱、盗汗、血痰、心筋昂進、頭痛、食欲不振、下痢等の表面症状に対してのみ、それぞれの処置を施したところが、それによって起こる根本原因にさかのぼって病菌に対する、全体の抵抗力を強くすることを計らなかったならば、そは実体を放置して、いたずらに影のみを、消さんとするに等しい。姑息な手段といわねばならない。

 赤ん坊は、人工栄養ではなく、母乳で育て、便通に注意し、よく眠らせさえすれば、一番安全に成長してゆくものだ。

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2011年09月08日

肥田式強健術真伝 105

 
療病雑録(十五)

 カロリーなんていうものは、当てにならんサ。カロリーが高いものであれば、滋養になるなんて考えるのは、大いなる間違いだ。元来生物は、わずかの食物で生存することができるということは、山野に茂る自然の草木を見てもわかることだ。人工的に、たくさんの食物を造って,種々の料理法で、山海の珍味をテーブルに並べるのは、生物中、人間ばかりだ。舌が喜ぶ代わりに、胃腸は大車輪の苦役で、やがて過剰栄養による、自家中毒を起こして、病床に呻吟し、いわゆる美味しい物も、食べられないのみか、苦い薬を飲まされて、今度は舌も、因果応報のてきめんなるを、シミジミと味わせられる。すべて油気の多いものは、カロリーが高い。百グラムの豚肉は、三十九カロリー、バターは七百八四カロリー、大根、チシャ菜は、各十八カロリー、キュウリは十三カロリーだが、後者の方が、清々しておって、しかも中毒の心配など絶対にない。「戦前の夏の病人料理全集」を読んで見て、その豊富な、濃厚な、ごちそうぞろいに、私は一驚を喫した。思えあらく、こんなごちそうを食べても、胃腸がドンドン処置することができるようならば、、すでに病人じゃないと。

 中心を叩けば、順逆一切は、ことごとく向上の資材となる。

 人間には栄養が必用であると、説くところまでは真実だ。だが、この薬は栄養剤なり。故に、この薬は、人間に必用なりと結びつけるところは、勝手な独断だ。けれどもこの三段論法には、人々の多くが、批判なしに肯定してしまう誤りに陥りやすい。

 穀物、野菜食であるのにもかかわらず、夏期に足が重かったり、だるかったりするのは、咀嚼不十分か、過食かのために、胃腸を疲労させ、消化吸収作用を、不完全にするからである。

 根本を養って時を待てば、いつか知らぬうちに治される。要は大自然の原理に従って、己の本源を養うことにある。だがこれを確信し、これを実行することになると、すこぶる難しいのだ。

 玄米食は「食べ過ぎない、」「よくかむ」この二つのことさえ守れば、故障を受けることはさらにない。

 神経質の者は、自分で自分の身体をむしばんでいる。同じ仕事でも、他人の五倍、六倍はかかる。例えば器物一つ洗うにしても、普通の人が洗うにしても、普通の人がやる五倍も六倍も、水をかけることになる。能率が上がらないうえに、多く疲労を招くのは、それがためである。

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聖中心道肥田式強健術     免許皆伝者 佐々木了雲


(ささきりょううん)

昭和22年8月生

「丹田研究所」主宰

聖中心道肥田式強健術・天真療法伝承師範。道統二代目継承者肥田通夫先生より唯一人全伝終了を証明する認可状と大看板を1984年に拝受。

最新刊『肥田式強健術』(BAB出版刊)と、基本習得ビデオ/DVD全7巻シリーズ(各45分)を主演にて完成。その他、丹田関連の著作多数あり。奉納・公開演武も全国的に展開している。


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